2019年5月19日(日) 第3主日
『兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。』(ヨハネ19:25~27)
イエスの十字架のそばにいた人々
主イエスが十字架につけられた時、多くの人々がイエスをそしり、あざけりました。しかし、そのただ中で、主イエスの側に立った者たちがいました。
1.アリマタヤのヨセフの生き方
ユダヤの議員でヨセフと言う人です。「この人は、議員たちの計画や行動には同意しなかった。」(ルカ23:50、51) 大多数がイエスを死罪だと叫ぶ中で、ヨセフは孤高の道を選択しました。りっぱな、正しい人で、神の国を待ち望んでいたと呼ばれる所以です。ヨセフは、誰もがしようとしなかった、否、できなかった特筆すべき行動に出ました。主イエスの体を十字架から取り降ろし、未使用の墓に丁重に葬りました。結果、「彼は富む者と共に葬られた。」(イザヤ53:9)とのイエスの埋葬の預言が実現しました。
2.勇気と決断
間違っていることに同調しないことには、大きな勇気が必要だったはずです。ヨセフを、りっぱな人と呼ぶにふさわしい所以は、この決断と実行力です。正しいことを行おうとする時、恐れて弱くなりがちです。「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ4:17) キリスト者が、罪意識にさいなまれるのは、この事柄です。神に喜ばれること、あるいは、喜ばれないことを知りました。罪が何であるかも知りました。しかし、なお、欠けているのは、行おうとする決断と勇気です。その力はどこから来るのでしょうか。
3.神の国を待望する信仰
ヨセフの信仰の特徴は、次のように言われています。「神の国を待ち望んでいた。」(ルカ23:51) 人間による支配と権威は終わり、神の直接的支配が実現する日、つまりキリストの到来を待望んでいました。神の国は神の義が支配する世界です。不正は消えて義の光が照る世界です。その実現を待望する人は、ヨセフのように、正しく歩みます。
4.私たちの希望と誇り
主イエスの地上再臨により、神の国が到来します。その日を待ち望むのは、私たちも同じです。そして、主イエスの「十字架を決して恥とはしません」と、パウロも言いましたが、私たちも十字架を恥とはせず、誇りとします。
2019年6月1日土曜日
2019年5月12日(日) 第2主日
「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:3)
ギリシャ語で頭骸骨を表すクラニオン「どくろの地」、ヘブル語ではエルサレムの近くにある丘の名前で「ゴルゴタ」と呼んだ処刑場がありました。そこでイエスは二人の犯罪人と共に十字架につけられました。預言者イザヤが告げた苦難のしもべ、そのままにイエスは、人々からさげすまれました。
1.道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」(マタイ27:39)
2.祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」(:41~43)
3.イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。(:44)十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。(ルカ23:39)
4.ローマの兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。(ルカ23:36、37)彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわってイエスの見張りをした。(マタイ27:35、36)
5.主イエスは、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(1ペテロ2:23) それどころか、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と祈られました。
主イエスは、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。(1ペテロ2:24)
「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:3)
ギリシャ語で頭骸骨を表すクラニオン「どくろの地」、ヘブル語ではエルサレムの近くにある丘の名前で「ゴルゴタ」と呼んだ処刑場がありました。そこでイエスは二人の犯罪人と共に十字架につけられました。預言者イザヤが告げた苦難のしもべ、そのままにイエスは、人々からさげすまれました。
1.道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」(マタイ27:39)
2.祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」(:41~43)
3.イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。(:44)十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。(ルカ23:39)
4.ローマの兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。(ルカ23:36、37)彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわってイエスの見張りをした。(マタイ27:35、36)
5.主イエスは、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(1ペテロ2:23) それどころか、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と祈られました。
主イエスは、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。(1ペテロ2:24)
2019年4月30日火曜日
2019年4月21日(日) 第3主日
その大能の御業のゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。(詩篇150:2)
キリスト者が日曜日に集まり、神への感謝と賛美をささげるようになったのには、特別な理由があり、古いものが過ぎ去り、全く新しくする出来事があったからです。モーセ以後、厳守されてきた土曜日安息日とは、6日間による天地万物創造の完成を記念し、7日目が聖日となったことが起源です。それが日曜日へと変わったのは、キリストの復活によります。
「人の子は安息日の主です。」(マタイ12:8)とイエスが言われたように、その日は、「主の日」です。死者の中からの復活された日は、イエス様の日と呼ぶにふさわしい日です。キリスト者が集まる理由の一つです。
天地創造とその世界は、偉大な神の栄光を現しています。同じく創造主の大能の現れ、それが、神の御子が三日目に死者の中から甦られたことです。その体は栄光の御体であり、罪と死に完全に勝利されました。朽ちもせず、汚れもせず、永遠に生きることができる、栄光の体へとイエスは復活されました。
キリスト者が、イエスの復活された日に集まるようになったのは当然と言えます。やがて、主イエス様がもう一度来られる日が来ます。その時、聖徒たちの体も、イエス・キリストと同じ栄光の体へと変えられるのです。その日もまた、主の日と呼び待望します。キリストの復活は、すべての聖徒たちにとっての希望です。
主イエスの甦りの朝は、「週の初めの日」です。労働を禁じた安息日があけて、働きを開始する日です。主イエスの復活された日は、春の祭りのひとつである「初穂の祭り」で、麦の穂を祭司が捧げる特別な日でした。イエスの復活を「初穂」(Ⅰコリント15:20)と呼んでいます。復活時代の到来であり、宣教時代の幕開けです。全世界にイエスの御名が宣べ伝えられています。
その大能の御業のゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。(詩篇150:2)
主をほめたたえよ
キリスト者が日曜日に集まり、神への感謝と賛美をささげるようになったのには、特別な理由があり、古いものが過ぎ去り、全く新しくする出来事があったからです。モーセ以後、厳守されてきた土曜日安息日とは、6日間による天地万物創造の完成を記念し、7日目が聖日となったことが起源です。それが日曜日へと変わったのは、キリストの復活によります。
「人の子は安息日の主です。」(マタイ12:8)とイエスが言われたように、その日は、「主の日」です。死者の中からの復活された日は、イエス様の日と呼ぶにふさわしい日です。キリスト者が集まる理由の一つです。
天地創造とその世界は、偉大な神の栄光を現しています。同じく創造主の大能の現れ、それが、神の御子が三日目に死者の中から甦られたことです。その体は栄光の御体であり、罪と死に完全に勝利されました。朽ちもせず、汚れもせず、永遠に生きることができる、栄光の体へとイエスは復活されました。
キリスト者が、イエスの復活された日に集まるようになったのは当然と言えます。やがて、主イエス様がもう一度来られる日が来ます。その時、聖徒たちの体も、イエス・キリストと同じ栄光の体へと変えられるのです。その日もまた、主の日と呼び待望します。キリストの復活は、すべての聖徒たちにとっての希望です。
主イエスの甦りの朝は、「週の初めの日」です。労働を禁じた安息日があけて、働きを開始する日です。主イエスの復活された日は、春の祭りのひとつである「初穂の祭り」で、麦の穂を祭司が捧げる特別な日でした。イエスの復活を「初穂」(Ⅰコリント15:20)と呼んでいます。復活時代の到来であり、宣教時代の幕開けです。全世界にイエスの御名が宣べ伝えられています。
2019年4月14日(日) 第2主日
『わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。』
ヨハネ17章11節
イエスの願い
主イエスの公生涯、つまり神の子キリストとして使命を果たした期間は3年ほどです。その間に、弟子を召し、育て、守り、父である神を明らかにされました。地上での使命を閉じようとするに先立ち、弟子たちがいる所で、父である神に語りはじめられました。その願いの言葉には、イエスとはいかなるお方かが示されています。
1.天におられる神の御ひとり子です。
イエスと神との関係の1番目は、父と子です。目を天にむけてイエスは言われました。「父よ。」ご自分については、「あなたの子が」と願いを告げられています。モーセ、ダビデ、サムエル、誰ひとりとして、神と自分との関係を、そのように告白はしていません。
2.永遠のいのちを持つお方です。
イエスはナザレで生まれ、十字架で死んだお方です。肉体をとり、人のもついのちを、イエスも聖霊により授かりました。しかし、イエスは、天地万物創造の先より、すでに、父である神と共に在られたと語られています。唯一の神と共におられた御子、そのいのちは永遠です。イエスこそ、万物の創造主であり、万物の存在目的でもあります。
3.天の父のもとから世に遣わされた御方です。
その目的は、父である神の御名を世に明らかにすることです。罪人を悔い改めさせ、救うためです。その弟子を召して育てるためです。罪の身代わりとなり、多くの人のための代価としてご自分のいのちを捨てることです。十字架はそのためです。イエス・キリストの使命です。
4.栄光の主です。
すべてを支配する権威を神より授けられたお方です。いっさいの裁きの権威をもっておられます。最後の審判において、白き御座に座してすべての人を裁くお方はイエスです。御使い、聖徒たちからの賛美と礼拝を受けるにふさわしいお方です。「ほふられたこひつじは、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしいお方です。」(黙示録5:12)
5.私たちのため祈られたお方です。
「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」(ヨハネ17:24)
『わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。』
ヨハネ17章11節
イエスの願い
主イエスの公生涯、つまり神の子キリストとして使命を果たした期間は3年ほどです。その間に、弟子を召し、育て、守り、父である神を明らかにされました。地上での使命を閉じようとするに先立ち、弟子たちがいる所で、父である神に語りはじめられました。その願いの言葉には、イエスとはいかなるお方かが示されています。
1.天におられる神の御ひとり子です。
イエスと神との関係の1番目は、父と子です。目を天にむけてイエスは言われました。「父よ。」ご自分については、「あなたの子が」と願いを告げられています。モーセ、ダビデ、サムエル、誰ひとりとして、神と自分との関係を、そのように告白はしていません。
2.永遠のいのちを持つお方です。
イエスはナザレで生まれ、十字架で死んだお方です。肉体をとり、人のもついのちを、イエスも聖霊により授かりました。しかし、イエスは、天地万物創造の先より、すでに、父である神と共に在られたと語られています。唯一の神と共におられた御子、そのいのちは永遠です。イエスこそ、万物の創造主であり、万物の存在目的でもあります。
3.天の父のもとから世に遣わされた御方です。
その目的は、父である神の御名を世に明らかにすることです。罪人を悔い改めさせ、救うためです。その弟子を召して育てるためです。罪の身代わりとなり、多くの人のための代価としてご自分のいのちを捨てることです。十字架はそのためです。イエス・キリストの使命です。
4.栄光の主です。
すべてを支配する権威を神より授けられたお方です。いっさいの裁きの権威をもっておられます。最後の審判において、白き御座に座してすべての人を裁くお方はイエスです。御使い、聖徒たちからの賛美と礼拝を受けるにふさわしいお方です。「ほふられたこひつじは、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしいお方です。」(黙示録5:12)
5.私たちのため祈られたお方です。
「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」(ヨハネ17:24)
2019年3月30日土曜日
2019年3月17日(日) 第3主日
『わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。』ヨハネ16章7~11節
助け主
イエス・キリストの御名には、罪からの救い主という意味合いが込められています。「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12)
救い主イエスが、弟子に遣わすと約束されたお方は、「助け主」です。
このお方をおいて、主イエスから賜った助け主は、他にはおられません。
「助け主」の呼び名には、「弁護者」という意味合いが込められています。困った時には、助けの手を差し伸べてくださるヘルパーと言うよりも、不当な判決を翻し、踏みにじられている者の側に立って擁護し、真理をもって喝破し、世にその過ちを認めさせる真理の御霊です。
主イエスが弟子たちに助け主を送ると約束されたのは、弟子たちが遣わされる世が、主イエスを信じないからです。過ちを認めようとしない不義が支配する世だからです。そして、神の御子を不当な判決のゆえに、十字架刑に処して殺した世だからです。その世に弟子が派遣され、罪を責め、過ちを認めて悔い改めさせ、かつ、はじめからの偽りものサタンに向かって行くのです。弱い弟子たちで、立ち向かえる相手ではありません。
主イエスが遣わす御霊こそが「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」助け主、弁護者の説得力を得た、弟子たちは、大胆に主イエスとその復活を語りました。悔い改めて信じる者がおおぜい起こされました。「人々は、これを聞いて心を刺され」(使徒2:37)
過ちと知りつつも怖れて「へつらいのことばを用いたり」する誘惑があります。だからこそ助け主が必要です。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(Ⅱテモテ1:7)
『わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。』ヨハネ16章7~11節
助け主
イエス・キリストの御名には、罪からの救い主という意味合いが込められています。「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12)
救い主イエスが、弟子に遣わすと約束されたお方は、「助け主」です。
このお方をおいて、主イエスから賜った助け主は、他にはおられません。
「助け主」の呼び名には、「弁護者」という意味合いが込められています。困った時には、助けの手を差し伸べてくださるヘルパーと言うよりも、不当な判決を翻し、踏みにじられている者の側に立って擁護し、真理をもって喝破し、世にその過ちを認めさせる真理の御霊です。
主イエスが弟子たちに助け主を送ると約束されたのは、弟子たちが遣わされる世が、主イエスを信じないからです。過ちを認めようとしない不義が支配する世だからです。そして、神の御子を不当な判決のゆえに、十字架刑に処して殺した世だからです。その世に弟子が派遣され、罪を責め、過ちを認めて悔い改めさせ、かつ、はじめからの偽りものサタンに向かって行くのです。弱い弟子たちで、立ち向かえる相手ではありません。
主イエスが遣わす御霊こそが「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」助け主、弁護者の説得力を得た、弟子たちは、大胆に主イエスとその復活を語りました。悔い改めて信じる者がおおぜい起こされました。「人々は、これを聞いて心を刺され」(使徒2:37)
過ちと知りつつも怖れて「へつらいのことばを用いたり」する誘惑があります。だからこそ助け主が必要です。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(Ⅱテモテ1:7)
2019年3月10日(日) 第2主日
『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。』ヨハネ15章13~15節
主イエスの弟子たちとイエスとの関係は、実にユニークです。
第1に、主イエスに礼拝をささげています。
弟子のトマスはイエスに対してこう言いました。「私の主。私の神。」(ヨハネ20:28) 主イエスは礼拝を拒むどころか、かえって、こうさとされています。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」弟子たちは明らかにイエスを神であると告白しています。
第2に、主イエスの方が弟子の足を洗います。
近づきがたい栄光の主であるはずなのに、イエス自ら進んで弟子の足を洗っておられます。これは、愛の証です。神の在り方を捨てて、しもべとなりイエスは、神と人とに仕えられました。
第3に、主イエスは弟子たちにはご自身を隠されませんでした。
山に上り、そこで栄光の輝く姿へと変貌されました。選ばれた弟子には、実の御姿を見せて、隠されませんでした。御独り子としての栄光です。
ゲッセマネの園では、十字架の死を前に、イエスが苦悶の祈りをささげる姿を、弟子たちに見せられました。父である神の前におけるイエスの弱さです。強さも弱さも、共にイエスは弟子に隠さずに示したのです。
第4に、イエスは弟子を友と呼ばれました。
しもべと友とでは分かち合える度合いが違います。友には信頼して、心をわって語ることができます。「人がその友のために命を捨てること」これが人のもつ最高の愛の行為です。主イエスの十字架での身代わりの死は、神が世を愛して御独り子を与えたほどの愛です。主イエスにとっては、友のために死なれた最高の愛なのです。
『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。』ヨハネ15章13~15節
その友のために
主イエスの弟子たちとイエスとの関係は、実にユニークです。
第1に、主イエスに礼拝をささげています。
弟子のトマスはイエスに対してこう言いました。「私の主。私の神。」(ヨハネ20:28) 主イエスは礼拝を拒むどころか、かえって、こうさとされています。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」弟子たちは明らかにイエスを神であると告白しています。
第2に、主イエスの方が弟子の足を洗います。
近づきがたい栄光の主であるはずなのに、イエス自ら進んで弟子の足を洗っておられます。これは、愛の証です。神の在り方を捨てて、しもべとなりイエスは、神と人とに仕えられました。
第3に、主イエスは弟子たちにはご自身を隠されませんでした。
山に上り、そこで栄光の輝く姿へと変貌されました。選ばれた弟子には、実の御姿を見せて、隠されませんでした。御独り子としての栄光です。
ゲッセマネの園では、十字架の死を前に、イエスが苦悶の祈りをささげる姿を、弟子たちに見せられました。父である神の前におけるイエスの弱さです。強さも弱さも、共にイエスは弟子に隠さずに示したのです。
第4に、イエスは弟子を友と呼ばれました。
しもべと友とでは分かち合える度合いが違います。友には信頼して、心をわって語ることができます。「人がその友のために命を捨てること」これが人のもつ最高の愛の行為です。主イエスの十字架での身代わりの死は、神が世を愛して御独り子を与えたほどの愛です。主イエスにとっては、友のために死なれた最高の愛なのです。
2019年2月28日木曜日
2019年2月17日(日) 第3主日
『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』ヨハネ15:5
枝はおろされず草は刈られず
農夫とぶどうの木、枝とその果実を例に、十字架上での死の前夜イエスは弟子を教えられました。旧約イザヤ5章でも似た話が出てまいります。ぶどう畑の主は、あまいぶどうのなるのを待ち望みつつ、山腹を掘りおこし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植えました。豊かな収穫を見据えて、見張り台をたて、更には、ぶどう汁のしぼり場までも作っておきました。ところが、出来た実はおいしくない、酸いぶどうでした。その結果主は、あれ廃れるままに放置しました。「枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。」主の期待を裏切ったのです。
私たちの存在目的を教えています。花を咲かすことでさえもが、果実を実らせるための一過程です。自分たちが何かをなしえたとすれば、それは主がなされたのであり、主がお喜びになるためです。私どもを愛と喜びと期待をもって養い育てておられるのです。だから絶えず、主のご介入があるのです。見かぎられていない証拠です。余分な枝はおろされます。
『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』ヨハネ15:5
枝はおろされず草は刈られず
農夫とぶどうの木、枝とその果実を例に、十字架上での死の前夜イエスは弟子を教えられました。旧約イザヤ5章でも似た話が出てまいります。ぶどう畑の主は、あまいぶどうのなるのを待ち望みつつ、山腹を掘りおこし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植えました。豊かな収穫を見据えて、見張り台をたて、更には、ぶどう汁のしぼり場までも作っておきました。ところが、出来た実はおいしくない、酸いぶどうでした。その結果主は、あれ廃れるままに放置しました。「枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。」主の期待を裏切ったのです。
私たちの存在目的を教えています。花を咲かすことでさえもが、果実を実らせるための一過程です。自分たちが何かをなしえたとすれば、それは主がなされたのであり、主がお喜びになるためです。私どもを愛と喜びと期待をもって養い育てておられるのです。だから絶えず、主のご介入があるのです。見かぎられていない証拠です。余分な枝はおろされます。
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2025年12月21日(日) 第3主日 『主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。』 詩篇138篇8節 神の作品には、途中で放置されたままのものはありません。太陽、月、星、植物、生き物に至る...
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2025年12月21日(日) 第3主日 『主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。』 詩篇138篇8節 神の作品には、途中で放置されたままのものはありません。太陽、月、星、植物、生き物に至る...
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2021年5月9日(日) 第2主日 「父と母とを敬え」 聖書を開くと、昔の人々の父母に関する教えを見出します。最初の人アダムには両親がいません。創造主である神が育ての親です。御父は一つの戒めを授けました。アダムは、それを守ることで敬愛を示しました。罪の起源、原罪は、父の戒めを...
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2019年6月23日(日) 第4主日 『あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。』(ルカ15章10節) 人はなぜ生きるのか 誰かに喜ばれていることを知る時に、嬉しくなります。逆に嫌われていると...