2019年3月30日土曜日

2019年3月17日(日) 第3主日

『わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。』ヨハネ16章7~11節

              助け主

 イエス・キリストの御名には、罪からの救い主という意味合いが込められています。「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12)

 救い主イエスが、弟子に遣わすと約束されたお方は、「助け主」です。
このお方をおいて、主イエスから賜った助け主は、他にはおられません。

「助け主」の呼び名には、「弁護者」という意味合いが込められています。困った時には、助けの手を差し伸べてくださるヘルパーと言うよりも、不当な判決を翻し、踏みにじられている者の側に立って擁護し、真理をもって喝破し、世にその過ちを認めさせる真理の御霊です。

 主イエスが弟子たちに助け主を送ると約束されたのは、弟子たちが遣わされる世が、主イエスを信じないからです。過ちを認めようとしない不義が支配する世だからです。そして、神の御子を不当な判決のゆえに、十字架刑に処して殺した世だからです。その世に弟子が派遣され、罪を責め、過ちを認めて悔い改めさせ、かつ、はじめからの偽りものサタンに向かって行くのです。弱い弟子たちで、立ち向かえる相手ではありません。

 主イエスが遣わす御霊こそが「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」助け主、弁護者の説得力を得た、弟子たちは、大胆に主イエスとその復活を語りました。悔い改めて信じる者がおおぜい起こされました。「人々は、これを聞いて心を刺され」(使徒2:37)

 過ちと知りつつも怖れて「へつらいのことばを用いたり」する誘惑があります。だからこそ助け主が必要です。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(Ⅱテモテ1:7)

2019年3月10日(日) 第2主日

『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。』ヨハネ15章13~15節
           
その友のために

主イエスの弟子たちとイエスとの関係は、実にユニークです。

 第1に、主イエスに礼拝をささげています。
弟子のトマスはイエスに対してこう言いました。「私の主。私の神。」(ヨハネ20:28) 主イエスは礼拝を拒むどころか、かえって、こうさとされています。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」弟子たちは明らかにイエスを神であると告白しています。

 第2に、主イエスの方が弟子の足を洗います。
近づきがたい栄光の主であるはずなのに、イエス自ら進んで弟子の足を洗っておられます。これは、愛の証です。神の在り方を捨てて、しもべとなりイエスは、神と人とに仕えられました。

 第3に、主イエスは弟子たちにはご自身を隠されませんでした。
山に上り、そこで栄光の輝く姿へと変貌されました。選ばれた弟子には、実の御姿を見せて、隠されませんでした。御独り子としての栄光です。
ゲッセマネの園では、十字架の死を前に、イエスが苦悶の祈りをささげる姿を、弟子たちに見せられました。父である神の前におけるイエスの弱さです。強さも弱さも、共にイエスは弟子に隠さずに示したのです。

 第4に、イエスは弟子を友と呼ばれました。
しもべと友とでは分かち合える度合いが違います。友には信頼して、心をわって語ることができます。「人がその友のために命を捨てること」これが人のもつ最高の愛の行為です。主イエスの十字架での身代わりの死は、神が世を愛して御独り子を与えたほどの愛です。主イエスにとっては、友のために死なれた最高の愛なのです。

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