2021年11月29日月曜日

 2021年11月28日(日) 第 4主日
『人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。』(ルカ 6章 31節)

黄金律

 「自分にして欲しくないことは、人にもそのようにしてはならない。」というのと「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。」とでは石と黄金ほどにその言葉の価値が違います。

 盗んではならない、殺してはならない、隣人のものを欲しがってはならないという律法は、隣人を損なうことをしないための禁止律法です。モラルの低下や、迷惑行為などは社会全体の質を低下させる原因になります。人にしてはならない事から始まります。

 それに対して愛の律法は、隣人のために益となることを進んで行うことです。「しないこと」よりも「すること」にかかってきます。主イエスは「自分にしてもらいたいと望む」ことをせよと言われました。

 私がしてもらいたいと願うことと、隣人の願いとが一致しているとは限りません。おせっかいや善意の押し売りというのもあります。自分を基準に、良いことをして本当に大丈夫なのでしょうか。

 主イエスは、ご自身の願い通りのことを人にもなさいました。かつ、真に隣人の益となる事のみを実行されました。自分にしてもらいたいことをせよとは、神のみこころと合致する願いごと以外には存在しません。

 願いはあっても、あるいは、してあげたいと思っても、それができないもどかしさをいつも私たちは抱えています。それでも、わかっていることは、人が求めているもの、あるいはしてもらって有難かったこと、それは「愛」です。親族、友人、教え導いてくれた人々。そうした人々から受けた恩恵があって今の自分があります。自分が受けてきた数々のことが思い出されてきます。「ならば、してもらったことを、今度は隣人にもすべきではないのか」
主もまた言われました。
「人にもその通りにしなさい」

 何よりも、天の御父が、私にしてくださったことは特別です。御父である神は、私の罪のゆるしのために御子イエスを、身代わりとして罰せられました。そして、今も、私の罪を赦してくださいと祈るたびに、赦し続けてくださいます。敵であった私たちでさえも愛してくださいました。ならば、「人にもそのようにしなさい」
 まことに説得力のあるお言葉です。

 2021年11月21日(日) 第 2主日
『イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。」』(ルカ 6:20、21)

パンにまさるもの

 何もかも捨ててイエスに従い始めた弟子たちでしたが、安定した生活基盤を捨てた時から、預言者エリヤにパンと肉とを備えた神への信頼が求められました。主イエスが言われるように、日ごとの糧を与えてくださいと祈る生活が始まりました。取税人マタイが回心した時には、大盤ふるまいの食事で満ち足りましたが、ある安息日には、空腹のゆえに麦畑の穂を、手でもんで、生麦を食べました。自分たちのパンを用意するのに精いっぱいなのに、主イエスは5000人以上の群衆の食事を備えるように促されるのです。食べることと生きること、生きることと信じることが直結しています。

 貧しさのゆえに食物に欠くこと自体は悲しいことです。他人が、軽々に慰めたところで、それが何の助けになるでしょう。なのに、主イエスは
「貧しい人たちは幸いです。」
と言われました。理由は、やがて
「満ち足りるようになるからです。」
とあります。何よりの幸せの理由は、
「神の国はあなたがたのものだからです。」
との約束にあります。ある者は、その言葉に心を躍らせ神をほめたたえるでしょう。ある者は、福音に満足せず、パンのみを求めるでしょう。事実、5000人以上の人々は、イエスが祝福した 5つのパンと 2匹の魚で食べて満ち足りましたが、群衆の中にはパンだけを求めてイエスについてくるものがいました。神の国の相続権と一食のパンといずれが勝っているでしょうか。神の国を与えるとまで約束された神が、パンを与えないことがありましょうか。
 何も持たない者を満ちたらせるとは、福音です。

 2024年3月31日(日) 第 5主日 『「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪びとたちの手に引き渡され、十字架につけられて、三日...