2022年1月2日(日) 第1主日
『あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義にさだめられません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。』(ルカ 6:36、37)
神にならう者
「ですから愛されている子どもらしく、神にならう者になりなさい。」(エペソ 5:1)と勧められています。実に高尚にして及びもつかぬ目当てに思えます。肉における親の徳にさえ及ばない者が、どうして天の神に似ることなどできえましょうか。なのに、はばかることなく勧められています。「神に愛されている子どもらしく」というのが勧めの動機です。
キリスト者が神の子だからと言って、能力や容姿が神に似ているわけではありません。ならうべきは、神の聖さであり、神の愛であると聖書には教えられています。キリスト者は、もはや、この世にならう者ではありません。(ローマ 12:2)ならうべきは神のみです。
模範は主イエスです。神の御子イエスは、天にます私たちの父である神と一体のお方です。御父を知り尽くしておられるイエスの生涯は、御父の栄光の表れそのものでした。イエスご自身も断定しておられます。
「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(ヨハネ 14:9)
主イエスのいつくしみと憐れみを受けた者ならば、それにならい、人にも同じくするはずです。罪の赦しを受けた者ならば、それにならい人の罪を同じようにすることが求められています。そうしないことは、新たな罪となることでしょう。(マタイ 18:35)
導き出される事は、キリスト者が、神に似ているとすれば、他者に対して、あわれみ深いことであり、他人の罪をさばかないことであると言えます。