2018年12月1日土曜日

2018年11月25日(日) 第4主日

しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。      ヨハネ12章13節~16節
           今の栄光のちの栄光
 主イエスの行動には一つ一つに意味があります。それを見ていた者は後で気づきました。イエスの御業、お言葉、計画、後にわかったすべてをヨハネが書こうとしても書ききれないほどであると告白しています。
 主の行動が後でわかったのは、ラザロの甦りです。主が愛されたラザロが危篤なので来て癒してほしいとの使いの言葉に、イエスは2日の間そこに留まり続けられました。イエスにとっては、行くか行かないか、あるいはいつ行くか、万事に御心があり、意味がありました。一時の猶予も許されない中でも、2日滞在し続けられました。イエスの計画は病を癒す事にはなく、甦らすことにありました。結果は、イエスは死後4日目に墓の前に立ち、ラザロをよみがえらせられました。主の計画はゆっくりではあっても確実です。
 ラザロの甦りの意味することをヨハネたちは後になって知ります。「わたしはよみがえりです。いのちです。」(11:25)と事前に言われたように、ほかでもない、主イエス自らが甦られたのです。しかし、誰もが、イエスの墓の前で復活の朝を待っていた者はいません。万事、栄光をお受けになってみて、あの時の主のお言葉を思い起こして行くのです。
私たちが知っている事、聞いている事、理解している事、きっと栄光の主が来臨される時には、イエスの弟子たちのように、これらのことがイエスについて書かれていたことだと悟り、驚くことでしょう。
 シバの女王(現イエメン)がソロモンの名声を聞き、ためそうとしてやってきました。「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。…聞いたうわさよりはるかにまさっています。」(Ⅰ列王記10:7) ヨハネは、イエスについてこう言います。「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」(ヨハネ21:25)
神の備え得ておられることは、人の想像をはるかに越えます。
2018年11月11日(日) 第2主日
十字架の言葉は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」Ⅰコリント1章18節19節
             十字架の福音 
 表題の聖書箇所は、使徒パウロが、ギリシャ地方で伝道してできた教会に当てて書いた手紙です。ギリシャは知の巨人を輩出した土壌です。最高の賢者との評を受けたソクラテスは答えました。「自分自身が無知であることを知っている人間は、自分自身が無知であることを知らない人間より賢い。」パウロはこう言います。「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」(1:20)ソクラテスは知恵者に順位をつけました。パウロは、神は、知者を愚かとされたと告げました。現代は、いずれを土台にしているのでしょうか。
 聖書では、「主を恐れることは、知恵の初め。これを行なう人はみな、良い明察を得る。」(詩篇110:10)創造主を崇め、同時に自分を神の前に低くすることから万事知恵は始まります。もし、それができるならば、神の創造作品である世界を通して、創造主である神を知ることができるはずです。
学者の知恵の言葉に対し、パウロは自らが語る神の知恵のことを「十字架のことば」と表現しました。人間の知恵と神の知恵のぶつかりあいです。圧倒的に軍配は神の知恵にあがりました。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」(1:19)
 パウロの語る福音とは、神の御子キリストが、十字架で死に、三日目に復活したのです。それは、本当の出来事であり、それを信じる者は誰でも救われるのです。自分の罪を認めない人には、キリストの十字架の死は蔑みでしかありません。神の力も奇跡も信じない人には、キリストの復活は興味を失わせるたわごとでしょう。しかし、自分の罪を知り、神に救いを願う者に、神の隠された知恵キリストなのです。キリストの十字架は、私のために身代わりです。キリストの甦りは私の罪の赦しの保障です。
 神の知恵は、人が凡そ思い浮かぶはずもない行為となって現れました。キリストによる救いは、人間の知恵の探求ではありません。信仰は、神の大いなる御業の上に土台を置いているのです。

 2024年3月31日(日) 第 5主日 『「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪びとたちの手に引き渡され、十字架につけられて、三日...