2019年11月30日土曜日

2019年11月24日(日) 第4主日

『あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。』
(ユダの手紙24、25節)

ただ、神を恐れよ

「空の空、すべては空」エルサレムでの王、ダビデの子ソロモンは、若者たちに向けて書き残しました。万事は、捕らえたと思っても、するりと逃げて行く風のようだ。夢を抱き多くの計画を口にしたところで、無駄に終わる。労苦には終わりはなく、最期にはすべての人は裸で世を去るのだから。勢いのある成長戦略に対し大きく制御をかける王の指針です。

 神への礼拝姿勢についても内省を促します。「神の宮に行くときは、自分の足に気をつけよ。」神殿に赴く回数が増すと、中身のない空しい礼拝が繰り返されて行きます。主イエスの招きを聞きましょう。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

 神の律法を近寄って聞く人は、悪事を悔い改めないで犠牲を捧げている人に勝ると断定します。主イエスを、忙しくもてなすマルタの不満は、手伝いもせずに、じっとイエスの言葉に傾聴するマリヤに向けられました。いずれが神に喜ばれるのでしょうか。
 
 祈りについても、「軽々しく、心あせって言葉を出すな。」ことばの多さについての注意です。神はいと高きところにおられる存在です。人は地にいる小さな存在であることを自覚せよと。主イエスも繰り返しの多い空しい祈りを注意されました。「ことば数が多ければ聞かれると思っている。」
 
 ソロモンは大切なのは、「ただ神を恐れよ」(伝道者の書5:7)そう繰り返します。神を恐れるとは、神を聖とすることです。神を、他のなにものからも分離し、もっとも高くあげることです。

 「唯一の神」を告白することは、私たちの救い主である神を、この世の生み出した神々の中に決しておかず、混同もしないことです。唯一の神の栄光、尊厳、支配、権威を知って、私たちが応答することです。褒め称え、従い、高くあげることが神を恐れることです。

2019年11月4日月曜日

2019年10月20日(日) 第3主日

「神によって生まれたのです。」(Ⅰヨハネ5:1)

新しく生まれた人たち

 生まれるのはただ一度だけの出来事です。生まれるのは新しい命の誕生です。生まれるのは新たに家族に加えられる出来事です。生まれるのは神の奇跡の御業です。生まれるのは最も大いなる喜びの訪れです。イエス・キリストにある者は、「新しく生まれた」(Ⅰペテロ1:3、23)new birth .born again.
です。
 新生した者でなければ神の国に入ることはできないと主イエスは言われました。国籍を取得しようとするのでさえも、出生が問われます。まして、神の家族、神の国の一員たるものにとっては神によって生まれていることこそ、最も重要なことです。
 イエス・キリストの教会もまた、新生した者以外は教会員にはなれません。両親がキリスト者だから自動的に加えられるのでも、洗礼を幼児期に受けているからとか、そうした理由にはよりません。教会に加えられた人はバプテスマを受けています。つまり、バプテスマは神によって生まれた者が受けるのであって、バプテスマによって新生するのではありません。

 神によって生まれるとはなんでしょうか。古い自分に一度死んだ人です。神なく、キリストなく、救いなく、生まれながらの性質そのままに生きてきたことに終わりを告げた人です。キリストと共に死んだのです。同時に、キリストが死者の中かから甦られたように、キリストにあって、生きている人です。(ガラテヤ2:20)
 神によって生まれた人は、神の子どもとしての自覚と心が与えられました。
「神は、アバ、父と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6)

 最後に、新しく生まれた人は、神を愛する人です。また、神によって生まれた兄弟姉妹を愛する人々です。(Ⅰヨハネ5:1)

2019年10月13日(日) 第2主日

「よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。」(ヨハネ第2の手紙 1章8節)

喜びがまったきものとなるために

 人への伝達手段は種々あります。電子メール、写真に動画、ライブカメラをもあり、情報量は増すばかりです。しかし、人と人とが直接会って語り合うのは、最も喜ばしいことです。
 ヨハネの第2の手紙で言われている通りです。
「あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためです。」
 使徒パウロも同じで、ローマにいる聖徒たちに会いたいと願いました。幾度も妨げられた結果、ローマ人への手紙を書きあげました。

 主イエスの手紙はあるのでしょうか。パウロ、ヨハネの手紙はあるのですから。ヨハネの黙示録1章~3章には、ヨハネが代筆した、御父の右の座に着かれた主イエスからの七つの教会あての手紙が存在します。手紙が諸教会あてに届けられ、読み継がれて今に至りました。
 主イエスの地上での生涯においては、記された手紙はありません。もともと手紙は、直接行って会えない代わりの手段です。イエスは、行くべきところ、会うべき人のところへ、いずこでも行かれました。言葉である主イエスご自身が、手紙にはよらず、自分で赴かれました。エリコに住む取税人ザアカイの家に泊まり、お救いになりました。(ルカ19章)湖の対外ゲラサに住むレギオンに支配された男性の所に行って解放されました。

 主イエスは、しるしと不思議を行い、神の言葉を残されました。それを誤りなく、聖霊の導きによって書いたのが、福音書です。今や、全世界の国人に届いています。歴史を通じて、書き換えられることなく、紙とインクで書かれたものとして読み継がれています。
 福音書は、ある意味で主イエスからの手紙とも考えられます。なぜなら、主イエスは、今は天の父の御元におられて直接にはお会いできないからです。顔と顔とを合わせて会うその喜びの日まで、聖書は私たちへの神からの手紙です。やがて、主イエスと相まみえる時が訪れます。その時、喜びがまったきものとなります。

 2024年3月31日(日) 第 5主日 『「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪びとたちの手に引き渡され、十字架につけられて、三日...