2024年2月23日金曜日

 2024年2月4日(日) 第1主日

『あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。』(ルカ 24章 5節)

真の答え

 イエスの遺体が治められていた墓にガリラヤから従ってきた女性たちは週の明け方早くに訪れました。そこで良き知らせを御使いから聞かされました。悲しみの場所、亡骸が埋葬されている所で、単なる慰めの言葉とは異なる次元のメッセージを聞いたのです。それは空の墓が意味する唯一の答えです。人の思考や経験では答えが出せないで、ただ途方にくれるしかない難題です。決定的で最高の答えが厳かなうちに、光輝く御使いによって語られました。女性たちは、その尊厳さに圧倒されてひれ伏します。
「ここにはおられません。」
ではどこに。
「よみがえられたのです。」
なんと簡潔なメッセージでしょうか。だが、真実に裏打ちされた権威在る語りです。御使いが語るゆえの、権威とは別のところに核心があります。
「主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
主イエスのお言葉にこそ、空の墓と甦りを結びつけ、一切の疑念も戸惑いも晴らす答えがあるのです。知っていながら聞いていながら、空の墓を前にして、誰もが見出せません。でも答えはすでに事前にイエスが与えていたのです。これまで聞いたみ言葉が、やがて訪れる難題に向かう時にどれほど、思い出されるのか問われています。

 女性たちと今に生きる私たちとは重なり合います。空の墓を見た女性たちと同じで、今も、私の前に示されているのは空の墓です。彼女たちは復活のイエスに未だ会ってはいません。これも私たちと同じです。誰かがイエスのよみがえりを指し示し教えました。彼女たちは御使いではありましたが、重要な点は、御使いが指示した、イエスの約束ごとです。これは私たちが手にしている聖書です。そこには必要な啓示が残されています。十分なるイエスの言葉が記されています。これは、ガリラヤの女性が聞いたお言葉と同じみ言葉です。直接イエスから聞いたことと、聖書を通して聞いたことという違いはあっても、み言葉を聞いて忘れていた点ではガリラヤの女性と我々とでは変わりがありません。御使いの告げた、聞いたみ言葉を思いこさなかった点への指摘は我々へのものです。
「主が語られたお言葉を思い出しなさい。」
聖書は読み聞かされている人、覚えている人、きっと大切な時に思い起こさせてくださると信じています。途方に暮れている者への真の解決となって行く、それが聖書のお言葉でありますように。

2024年2月7日水曜日

 2024年1月14日(日) 第2主日

『彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕らえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。』(ルカ 23章 26、27節)

シモンが背負ったイエスの十字架

 ゴルゴダは十字架刑の刑場です。そこへの途上に起きた出来事の一つが、主イエスの十字架を無理やり背負わされたクレネ人シモンのことです。過ぎ越しの祭りでエルサレムに来ていたシモンのヘブル読みはシメオンですからユダヤジンと思われます。なぜ、シモンが選ばれたのか。田舎から出て来た者、都会人とは違う屈強そうな体格が目に留まったのかもしれません。しかし、神の御心が先にあって、その役割を担いました。

 犯罪人は、見せしめのために十字架を背に担わせて市中を歩かせられました。神の御子イエスが、聖なる都エルサレムで同じ目にあったことで、片隅での出来事ではなくなりました。
「主は私たちのすべてのものの咎を彼に担わせた。」(イザヤ 53:6)
イザヤの預言が、ここに成就して行きました。

 本来、私たちが背負うべきはずの刑それが十字架であり、律法学者、神に呪われた者であることを示しています。イエスの十字架をシモンが背負い拒むことができなかったのは、それは誰もが背負わねばならない、いや、すでに背負って歩んでいる、その姿を示していると思います。また、シメオンはイエスの御足後を踏み、キリストの弟子の歩みの模範を示しました。

 ついにゴルゴダに着きます。シモンの肩にかかった十字架の重には取り去られて、イエスに完全に渡されました。イエスが私たちの罪の重荷のすべてを受け取ってくださったので、私たちは、罪の重荷を取り去られました。今は、新たな使命という重荷を背負って歩んでいます。

 2024年3月31日(日) 第 5主日 『「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪びとたちの手に引き渡され、十字架につけられて、三日...