2019年2月28日木曜日

2019年2月17日(日) 第3主日

『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』ヨハネ15:5

          枝はおろされず草は刈られず

農夫とぶどうの木、枝とその果実を例に、十字架上での死の前夜イエスは弟子を教えられました。旧約イザヤ5章でも似た話が出てまいります。ぶどう畑の主は、あまいぶどうのなるのを待ち望みつつ、山腹を掘りおこし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植えました。豊かな収穫を見据えて、見張り台をたて、更には、ぶどう汁のしぼり場までも作っておきました。ところが、出来た実はおいしくない、酸いぶどうでした。その結果主は、あれ廃れるままに放置しました。「枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。」主の期待を裏切ったのです。

私たちの存在目的を教えています。花を咲かすことでさえもが、果実を実らせるための一過程です。自分たちが何かをなしえたとすれば、それは主がなされたのであり、主がお喜びになるためです。私どもを愛と喜びと期待をもって養い育てておられるのです。だから絶えず、主のご介入があるのです。見かぎられていない証拠です。余分な枝はおろされます。

2019年2月10日(日)  第2主日

『イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」』ヨハネ14章22節

             世に勝った

「世」とは、社会としての生活の場であり、流もあれば時もあります。たとえば、「千代に至る祝福」は、主の戒めを守る者に及ぶ幸いですが、個人の領域を越えて、社会全体に、あるいは幾世代にも及びます。
 
 ノアとその家族を例にとるならば、当時の世は、神の道を乱し、暴虐が満ちていました。しかし、ノアは、生活の場が、たといそうであったとしても、主の道を歩み通しました。大洪水によって当時の世界とその世とは滅びました。唯一、義人ノアとその家族は救い出されました。その祝福は、代々に及び、今に至ります。ノアの子セムへ、セムの子孫テラへ、テラの子アブラハムへ。アブラハムはダビデへ。そして、ダビデの子孫としてこられた、私たちの主イエス・キリストへと到達します。千代をはるかに越える「永遠の命」の祝福として、イエスを信じる者すべてに及びます。
 
 主イエスがこられた「世」は、ユダヤの王はヘロデ大王で、主の降誕を知って幼児を殺害しました。イエスが公生涯を開始される時の預言者ヨハネを斬首したのが、息子のアンティパス。イエスが捕らわれた時に会っています。ヘロデ大王の孫アグリッパ一世は、パリサイ派と協力して使徒ヤコブを処刑しました。主の使いはこのヘロデを打ち、虫にかまれて息絶えました。(使徒12:23)アグリッパ2世(ヘロデ大王曾孫)は、捕えられた使徒パウロから直々に証しを聞き、心動かされます。10年ほどしてエルサレムは、ローマ軍の侵攻を受けて陥落しますが、ローマの側についた人物です。
 主イエスの降誕、公生涯の開始、使徒達の宣教開始、使徒パウロの宣教という、神の救いの御業が現れた時代。世は、これを悟らず、むしろ世はこれを憎みました。神の国に敵対し続けたのが世でした。

「この世を支配する者が来るからです。」(ヨハネ14:30)
とイエスが言われたのはサタンのことです。
「全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。(1ヨハネ5:19)
これが当時を生きたヨハネの証言です。
では、神の支配はいかに。イエスは言われます。
「わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)
 そのお方から「助け主」が遣わされました。そのお方を受け入れる者が神の子どもたちです。この世は、なおも神の忍耐と慈愛が注がれ続けています。しかし、暴虐が地に満ち、神の道を乱しています。信じる者たちは、イエスへの愛とその現れを待ち望んでいます。

2019年2月2日土曜日

2019年1月27日(日)第4主日 


「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」」                     ヨハネ14章6節

             道・真理・いのち

主イエスはその弟子に、神を信じると同様にご自分を信ぜよと言われます。また、ご自分を指して、「道、真理、いのち」であるとも言われました。

そのように言い切ることのできるお方は、イエス以外には知りません。

聖書中、道を指示した大いなる預言者はバプテスマのヨハネです。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」と叫びましたが、自分に関しては、「私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。」(ルカ3:16)と言っています。皆が悔い改めて自分を正す事が、イエスを迎える道備えであり、ヨハネはイエスを指示した人であって、自分自身が道であるなどとは言いません。

それに対してイエスは、ご自分が道であると言われます。その道とは、イエスの御父である神に至る道です。その事は「真理」であると断定されています。その証拠は、「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。」「わたしを見た者は、父を見たのです。」イエスと御父との完全なる一体性にあります。(ヨハネ14:9、10)

「いのち」の道と滅びの道とがあります。御父の家へと向かうか、それとも永遠の滅びへと向かうかは最重要です。言うまでもなく、イエスは御父の家の住まいへと導くお方であり、そのために場所を備えに行くと言われます。

滅びに至る道の先導者がいます。私こそがキリストであると言う反キリストの霊です。サタンのために備えられたゲヘナへと誘おうとする道です。もう一つには、どの道でも救いに至ると教える者です。人が道を尋ねているのに、どれでも結局は、同じだと言う人は、迷いに導く人です。これらは、滅びに至る道です。救いの道は、一つで「わたしを通しでなければ、」。

主イエスはいのちへと導くお方です。御国の門で「わたしはあなたがたを全然知らない。」(マタイ7:23)と言われてしまえば、外の暗闇へと追放されます。逆に主イエスに知られている者はパラダイスに入ります。

十字架にイエスと共につけられた犯罪人の一人は、イエスこそが道であると信じて、死の間際に、いのちに至った人です。犯罪人は一つの願いをしました。「イエスさま。あなたの御国の位におつきになるときには、私を思い出してください。」イエスは言われました。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:42)
イエスこそが救いの道です。

2019年1月13日(日)第2主日


「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」ヨハネ13章35節


栄光の旅立ち

主イエスが、その弟子たちに「新しい戒め」を授けたのは、過ぎ越しの祭りの前夜、イスラエルの歴史上では、エジプトから栄光の脱出を記念する夜です。モーセ率いるイスラエル民族がエジプトから贖い出された時、神の偉大さと、贖いの力が表されました。前門の虎後門の狼のごとく、行く手をはばむ紅海、追い迫るエジプト軍の戦車。結果は、主が輝かしくしも勝利を収められました。(出エジプト15) 旅立つ日、それは栄光を受けた日、そして、栄光のあらわれに向けて進む日です。

主イエスも、その夜に言われます。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。」(ヨハネ13:31)別訳では「栄光を受けます。」とも表現されています。主イエスにとって、その日は、父の御元へと、戻る時をさしています。(13:1)御父の御そばで、栄光に輝いておられた御子イエスが、地上の使命を果たし終えて栄光の御位につく時が来ました。(17:5)主イエスの栄光への旅立ちです。しかし、恐ろしい死の陰の谷、いや、十字架上での死が待ち受けています。苦難の後に待っているのが、栄光の復活と昇天、御父の右に着座されることです。

イスラエルが、石の板に刻まれた十戒、律法を授かった時、シナイの山は火と煙、全山が震え、近づくものは打たれる恐怖が覆いました。主イエスが与える新しい戒めは、万物の支配者、神であるイエスが、膝をかがめ、しもべとなって弟子の足を洗う行為と共に与えられました。「あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13:34) 

新しい戒めは新しく造られた民に授けられました。イスカリオテのユダにサタンが入り、イエスのもとから去り出て行ったあとです。汚れた足がイエスの洗足できれいになったように、ユダが去り汚れが取り除かれました。新しい戒めは新しい民に与えられました。守る者への祝福は、主イエスが留まられることです。荒野の旅路では、昼は雲、夜は火があって、神が共におられるしるしとなりました。私たちにとっては、互いに愛しあうことは、その群れの中にイエスがおられる、しるしなのです。 

 2024年3月31日(日) 第 5主日 『「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪びとたちの手に引き渡され、十字架につけられて、三日...