2018年5月1日火曜日

2018年4月22日(日) 第4主日

『イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。』(ヨハネ 5章5節~9節)
 
わたしの父は

ベテスダの池の周りに廊下があり、そこは、大勢の病人、目の見えない人、足が麻痺した人、衰弱した人などが集まっていました。エルサレムに行かれたイエスは、あえてそこへ足を運ばれましたが、誰もキリストだとは知りません。イエスに願い求める人もいません。皆の思いは、池の水面がかき回されて動く時に、水の中に入ることで癒されたいのです。

イエスは一人の病人に声をかけられました。38年もの間病気で床に着いている人です。その人は、イエスのお言葉通りに「起きて、床をとり上げて歩き出しました。」
 本人の信仰のゆえに癒されたのではありません。後程、それがイエスであることを知ったと書かれています。イエスのみ言葉に従った結果でもありません。むしろ、癒された業が先行し、本人には、その事実を自ら確認するようにと「起きて、床を取りあげて歩きなさい。」との意味ともとれます。治ったのだから・・・。

イエスの御業が示していることが説明されています。
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネ517) 
 父である神との共同のお働きだと説明されています。それは、休みのない救いの業です。それは、神とイエスの一方的な恵みの御業です。
 「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」(ヨハネ521) 大勢の病人の中から、選ばれたのは38年の間、病気を背負って歩んだ人でした。
2018年4月1日(日) 第1主日

『見ずに信じる者は幸いです。』(ヨハネ 20章29節)
 


主イエスは、十字架前夜に、弟子たちに、ご自分の死を告げられました。弟子が、平安を失うことがないようにと語られます。死は、父の家に戻ることであり、そこで、弟子のために先立って場所備える目的があること。備えができたら、再び来ることを約束されました。トマスは、それを聞いたときに、
 「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が私たちにわかりましょうか。」(ヨハネ14:5)
 トマスの「わからない」は、「受け入れられない」の別表現とも言えます。トマスは十字架のイエスの死の道も、復活される主の道をも受け入れませんでした。弟子たちが復活のイエスを証しても
 「決して信じません。」(ヨハネ20:25) と頑なになるばかりです。

  主の道があります。かつて天よりくだり、人の子となるために下られた道です。まずナザレで神と両親とに仕え、人の子としての道を歩まれました。そして、キリストとして公にご自分を示す伝道の道を歩まれました。最後にエルサレムで捕らわれて、十字架刑に処せられる苦しみの道がありました。ビア・ドロローサ、悲しみの道を、十字架を背負いながら歩まれました。最期の息を引き取る場所は木の上でした。すべてが主の道です。

 
 主は墓に葬られて後、三日目、つまり、日曜日の朝早くに甦られました。エマオに下る道すがらふたりの弟子と共にイエスは歩み、ご自分のことを示されました。その後に他の弟子たちにご自分を表すこと度です。ガリラヤに戻り、そこが復活のイエスとの出会いの場でした。
 
 イエスの12弟子のひとりとして名を連ねたトマス。
 「私たちも行って主といっしょに死のうではないか。」(ヨハネ11:16) 時に死の覚悟を口にできる強い人でした。ゆえに、合点が行かない場合には、
 「わかりません。」(ヨハネ14:5) 「決して信じません。」(ヨハネ20:25) と言い切ります。主の歩まれた道があります。そして、今も、主の道があるはずです。

 2024年3月31日(日) 第 5主日 『「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪びとたちの手に引き渡され、十字架につけられて、三日...