2023年9月28日木曜日

 2023年9月17日(日) (第 3主日)

権威論争

 ルカ福音20章には三つの論争が記されています。権威論争、納税義務論争、復活論争です。挑んできたのは祭司長、律法学者、長老たちです。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」
イエスはこの者たちに逆に質問されました。バプテスマのヨハネに関わることで、その権威の出どころを尋ねた質問です。預言者ヨハネは、イエスがキリストであることを指示した偉大な神の器です。そのヨハネが、イエスを高く挙げてこう言います。
「私などは、その方のくつのひもを解く値打ちもありません。」(マタイ 3:16)ヨハネの権威を否定すれば、自分たちに石が飛んでくることが分かっています。さりとてイエスの権威を認めたくはないのです。(マタイ3:16)そこで「知りません」と返答しました。自分たちの許可も得ず宮の商売人を追い出すイエス。宮で毎日自由に教えるイエス。イエスの教えに熱心に傾聴する人々。これ以上は我慢できず、イエスを総督に引き渡そうと計ります。

 イエスは明確な答えを語られました。悪い農夫のたとえ話で、ぶどう園の作り主が長旅にでるので農夫に貸しました。収穫期になり、分け前を受け取ろうとして三度も、しもべたちを送りますが、傷を負わせ辱めて追い返しました。そこで持ち主は最終手段を講じます。わが子ならば敬うだろうと、愛する息子を送ります。しかし、最悪をもって報います。「あれは跡取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」

 イスラエルには、神が遣わした預言者たちを拒み殺した歴史があります。(マタイ23:37)イエスとは、神が最終手段として遣わした神のひとり子です。このたとえには、イエスがなぜ殺されるのか、誰が殺すのかが明らかにされています。既得権益を主張する者たちが、真の支配者であり所有者である神に敵対します。イエスを都の外のゴルゴタ(しゃれこうべ)で十字架の上に架けて殺しました。イエスのたとえは、敵がしようとしている悪行を前もって明かす内容でした。しかし悔い改めません。
『きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。』(ヘブル 3:7、8)

2023年9月8日金曜日

 2023年8月20日(日) 第3主日

『イエスは答えて言われた。「わたしはあなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」』ルカ 19章40節

王の入場 

 王位を授かって遠い国から戻って来た主人が、出かける前に10人のしもべたちに与えておいた10ミナで、如何に商売をしたのか報告を求め、それぞれに相応しい報いを与えるというイエスの例え話があります。報いとは別に、王に着くことを望まなかった国民に対しては厳しい審判をくだします。この例えには、将来、主イエスが王の王として諸国を鉄の杖を持って治める来臨の約束が語られています。もう一つには、例え話のすぐ後に続く、主イエスが王としてエルサレムに入場する出来事と繋がっています。

 弟子たちの一群は、イエスを王として認め、大喜びで神を賛美し、こう言いました。
「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」
その賛美にふさわしく平和の君としてのイエスは、軍馬ではなく柔和なろばの子にのり、兵士を伴うことをせず主の弟子を伴い、王冠や剣を一切身につけず、喜びと賛美と平和のうちに現われました。まさに預言者が告げていた通りです。
 「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも雌ろばの子の子ろば。」(ゼカリヤ 9:9)
約束のキリストが王としてエルサレム来られたことのしるしは、「子ろば」に乗るお方です。

 子ろばの調達は、ユニークで神の方法です。主イエスはすべてを知っていました。子ろばが隣村に繋がれていること。二人の弟子が行って、それをほどこうとすれば、持ち主から問われたら、「主がお入り用なのです」と返答すべきことばの指示も事前に与えています。それどころか、昔、ゼカリヤにあらかじめこのことを神が告げておられました。神は御心の実現のために、子ろばを備え、ご主人の心を変え、乗り物を用意されたのです。王としての権威が見事に証される一言が「主がお入り用なのです」それ以上の説明を要しません。いやそれこそが、最大の説明であり必要性なのです。必要としてくださること自体が光栄なことです。果たしてオリーブ山を登り下りする勾配のある坂道を、イエスを乗せた子ろばが、全行程完遂できたのか…。

 イエスは、エルサレムに着き、最後には十字架の道へと歩まれます。そこにはイエスのたとえ話に出て来る、主が王であることを望まなかった敵が待ち受けていました。イエスが十字架にかけられた時「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてありました。主イエスは、まぎれもなく王として死なれたことを証しています。やがて王の王イエスは来られます。

 2024年3月31日(日) 第 5主日 『「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪びとたちの手に引き渡され、十字架につけられて、三日...