2018年5月20日(日)第3主日
『イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。』
(ヨハネ6章5~6節)
しるしか満腹か
イエスが、旅の疲れをいやすため、サマリヤの井戸のかたわらに腰をおろしておられました。そこに水を汲みに来た女性に「わたしに水を飲ませてください。」と言われました。飲み水のことからイエスは始めて、とこしへに渇くことのない水、「永遠のいのちへの水」のことに話は進み、ついには、サマリヤの多くの人がイエスをキリストと知るにいたります。
ヨハネ6章では、今度は、パンのことから始まり、群衆はイエスが増やしたパンにあずかります。しかし、なくなるパンを求めて押し寄せる人々に、いつまでも保ち、永遠のいのちの食物を求めることを語ります。神が今、与えているパン(天よりのマナ)、それはイエスご自身であると宣告されます。「わたしがいのちのパンです。」パンは麦の粉からできます。イエスが言われたいのちはパンは「わたしの肉,わたしの血」によります。そこまで説教を聞いた弟子たちの多くは、聴くに堪えがたいとして、離れて行きました。
少年が持参していた5つのパン、2匹の魚、イエスは、確かに5000人以上の群衆に分け与え、満腹にさせ、なおも12のかごに余りました。それは、単なる窮乏者への救済措置ではありません。「しるし」なのです。天の父が荒野の民になさったマナと同じで、神が目の前でしておられる御業です。さらに、その意味合いは深く、イエスが自分のいのちを多くの人のために文字通り、割いて分かち与えることを指しています。パンは一時のいのちの糧です。イエスの与えるいのちは、永遠のいのちです。そのようにパンのしるしを見た群衆は、イエスのところに来るはずでした。
人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、無理やりにつれて行こうとしているのを知って・・。」
パンと水を与えるイエス価値は、自分の都合の良い供給者です。永遠の命よりも、今のいのち。天の御国よりも、今がすべてになってしまっています