2018年8月4日土曜日


2018715() 第3主日
わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。                     ヨハネ767
           わたしの時
災害は「思いがけない時」に訪れます。もし、その訪れの日を知ってさえいればと悲しくなります。しかし、人は知りえません。主イエスは、訪れてくる苦難の時を知りつつ生きておられた方です。イエスにとっては、思いがけない出来事など一つもありません。12人の弟子のひとりイスカリオテのユダが裏切ることも。ご自分が捕えられて裁判にかけられることも。ついには十字架につけられて死ぬことも。すべては、知り得ておられ、その来るべき時に向かい歩んでおられました。
イエスには「わたしの時」と呼ぶべき特別な時がありました。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」(ヨハネ17:1)古へより預言者たちが、指し示してきたキリストの受難が成就する時です。イザヤが預言した「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」(イザヤ53:5)キリストの受難の時です。バプテスマのヨハネが告げた「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)過ぎ越しの祭りの時に屠られた小羊が指示して来たのは、このお方、イエス・キリストです。ついに世の罪の身代わりとして、十字架上で死ぬその時が来ました。神の救いの計画の成就の時です。
「わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:47:6)仮庵の祭り(秋の時期)の時ではなく、過ぎ越しの祭り(春の時期)の時に、キリストは公にエルサレムに入城されました。それ迄は、イエスの身内がどんなに公に自分を表すようにと促しても、時ではないとお答えなさいます。逆に人は礼拝に行ける自由な時なのに、その時を用いません。イエスが身内に言い返された言葉、「あなたがたの時はいつでも来ているのです。」身の危険も反対もなく自由に仮庵の祭りに行けるのに、その自由を用いてなぜ、エルサレムに行こうとしないのかと。

私たちに与えられた今とは、どんな時なのでしょう。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」

確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(Ⅱコリント6:2


2018年7月8日(日) 第2主日

『わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちなのです。』

                       ヨハネ6章63節

             なぜ躓くのか

 イエスがカペナウムの会堂で教えを語った時、聞いた多くの弟子の反応は、「これはひどいことばだ。そんなことを誰が聞いておられよう。」(ヨハネ6:60) この時の説教により、「弟子たちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」(ヨハネ6:66) 12弟子にも問われます。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」(ヨハネ6:67)

 聞く側をためし、ゆさぶり、ついに去って行くほどの内容とはなんでしょうか。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちをもっています。」(ヨハネ6:54) 比喩の場合なら、「私の爪の垢を煎じてのめ」程度です。 比喩でないことは、「わたしの肉、わたしの血」と3度も、「わたし」が強調されています。ご自分の御体を指して言っておられたことは明らかです。

躓きを引き起こした背景に、モーセの律法との関連があります。

「どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ」(レビ17:10) モーセ以後、イエスの弟子たちに至るまで守り通した律法です。(使徒15:29)それを無視するかのような意味は何をさしているのでしょう。

第1に、イエスの言葉を指します。そこにいる弟子たちに、その時、その場でまことの食物、まことの飲み物を与えていたのです。それがイエスの説教でありその御言葉です。イエスの側から言えば、自分の血肉そのものを差し出しているのです。いのちを差し出して、命のことばを伝えておられるのです。まことのいのちを分かち与える説教、これがイエス・キリストです。ペテロには、わかっていました。「あなたは永遠のいのちの言葉をもっておられます。」(ヨハネ6:68)

神の言葉、聖書は聖霊により命を与えるお言葉です。

第2に、文字通り、イエスの血と体をさしています。なぜ、モーセは血を食することを禁じたのか。動物の血が贖いの犠牲の役割としてある時から聖別されました。来るべきまことの血のささげものを指示していました。ついに時至り、十字架上でイエスはご自分の御体を捧げ、その血を注がれました。これこそ、完全な罪の贖いの犠牲です。私たちを完全に救う捧げものです。それを受け取る者には、誰にでも永遠のいのちが与えられます。




 
 
 

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