2019年8月31日土曜日

2019年8月25日(日) 第4主日

『私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。』(Ⅰヨハネ4:16~18)

恐れを締め出す

イエスは、幼子たちについて、こう言われました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。」(ルカ18:16)
 主の弟子たちは、幼子をイエスのもとに連れだって来た人々を、しかりました。子どもたちが排除される社会的な常識を、弟子たちは、神の国にも持ち込もうとしました。主イエスはその行動に異論をはさみ、弟子の間違った考えを正して言われます。
 「神の国は、このような者たちのものです。」(ルカ18:16)

 聖歌590番「恐れなく近よれと主は語りたもう」(詩FJ.CROSBY) は、主が愛すると言われる御声を聞いて、いよいよ、ますます主イエス様へと近づいて行くという詩の内容です。十字架について死んでくださったイエス様を覚える時に、いつでも、いかなる時でも、神に近づく道が開かれている事を悟るのです。身代わりになって死んでくださったからです。

 刑罰と恐れ、モーセを通して授けられた律法の一面です。違反をした者は、そのペナルティーである、死の報いを必ず受けます。死への恐れの原因が罪にあると聖書は教えています。その解決のために私イエス・キリストが代わりに罪の呪いを一身に受けてくださいました。

 もはやキリスト者の死は刑罰ではありません。神の子どもたちを、主が自分の最もそばへと招き入れてくださる瞬間と変わりました。死後に待つ、神の裁きの日が確定されていますが、その日にも、キリスト者は、裁きにあうことは決してありません。なぜなら、白き御座に座して、あらゆる人々を裁くお方こそ、私たちの愛する主イエス・キリストだからです。
2019年8月11日(日) 第2主日

「子どもたちよ。あなた方は神から出た者です。」(Ⅰヨハネ4:4)

霊的出自

 「神から生まれた者」が、キリスト者です。その人々の帰属意識の第1は、国籍は天にあり、そこにおられる御父である神の子どもに属している自分です。ですから「神の国とその義とをまず第1に求めなさい。」(マタイ6:33)そのことからしたら、国籍、血筋は第2義的なものです。会社、地域、血族関係は生きていく上で大切なものです。時に「うちの会社」と呼ぶほど親密です。そうした親密表現「うちの教会」と言う場合もあります。教会のうちに居るのか、外に立っているのか、考えてみる必要があります。教会に出席することが、神のうちに居ることと必ずしも同義ではありません。天国に入った人についてだけは間違いなく全員が神のうちにいます。

 「誰でも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人の内におられ、その人も神のうちにいます。」(Ⅰヨハネ4:15)
 まず、主イエスに対しての信仰です。人となってこられたイエスを神の御子と公に告白している人は、神のうちにいます。同時に、神もその人のうちにおられます。そのことは、「神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。」(Ⅰヨハネ3:24)

 信じた者が受けた御霊が、教えてくださることは、神の愛です。漠然とした愛ではなく、「ひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。」(Ⅰヨハネ4:9)
 神と私とが、どれほどに近い関係にいるか、それを示しているのが神からの愛です。
「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。」(Ⅰヨハネ4:16)
 
 主イエス・キリストが神の御子であることを信じています。罪のない方が、十字架で身代わりとして死んでくださったことを信じています。そして、神が私たちを救うために、御子をそのようにして、お遣わし下さったことを知りました。神の救いを信じた者は、その時、知ることになります。すでに神の愛のうちに自分がいることを悟ります。
 私たちの出自は、まぎれもなく神にあります。

2019年8月8日木曜日

2019年7月21日(日) 第3主日

『子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。  父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。
小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。』
(Ⅰヨハネ2章12~14節)

私たちの確信

 偽物が現れる時代に、Ⅰヨハネの手紙は書かれました。「反キリスト」とは、その際たるもので、キリストの名は使いますが、その実は、神に敵対する者、サタンの働きによります。「今それが世に来ているのです。」とまで言われています。実際、異なる教えに従い出て行く者が起き、少なからぬ動揺が群れに生じました。(2:19)偽りの力が台頭してきました。そこで、本物と偽者との違いを鮮明にし、かつ、勝利者の群れであることを思い起こさせようとします。光とやみ、神の子と悪魔の子、真理と偽りとの表現がそれをものがたります。この手紙により、読んだ信仰者には確信を与え、ますます主の命令の中にとどまるようにと教え諭そうとしました。
 執筆目的はこうです。
 「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」(5:13)

 キリストを信じた自分を見直す事が確信への道です。罪赦された者。初めからおられた方キリストを知った者。悪い者に勝った者。キリストの御父を知った者。強い者であり、キリストのみ言葉が留まっている者なのです。
 そして、何よりも神の愛を知った者です。

2019年8月7日水曜日

2019年7月14日(日)第2主日

『私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もし誰かが罪を犯したのなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。』(Ⅰヨハネ2章1、2節) 

信じた後に犯す罪

 ヨハネ第1の手紙は、神の御子を信じて、永遠のいのちを得た者にむけて書かれています。(Ⅰヨハネ5:13)信仰をもつ以前、あるいはバプテスマを受けてキリストに従うまでの罪については、福音書を読むと明らかです。
姦淫の女の罪をゆるしたイエス。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」(ヨハネ8:11)
罪人と呼ばれていたザアカイを見出して救うお方イエス。(ルカ19)
極めつけは十字架でイエスと共に処刑された犯罪人の一人の救い。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)
間違いなく、どんな罪人でも、あるいは、いかなる罪であっても、主イエスを信じる者は赦されます。
 では、信じた後のキリスト者の罪はどうなるのでしょうか。
 
 第1に、私たちは神の愛を信じています。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」(Ⅰヨハネ4:10)
 神の方からの愛と赦しによって救いを受け取りました。重々承知の上で、お救いくださいました。
 
 第2に、キリスト者の罪のための神の怒りは御子イエスの十字架によって過ぎ去りました。
 「この方こそ、私たちの罪のための、なだめの供え物なのです。」(2:2)
 以前には、神の怒りをなだめるために、多くの動物の生贄が全焼としてささげられました。(創8:21、レビ4:31)

 第3に、キリスト者のために主イエスは弁護してくださいます。義なるイエス・キリスト、人となり、一度も罪を犯すことのなかったお方こそが、神の前における私たちの弁護者です。

 第4に、キリスト者は、もはや罪の内を、継続的に歩み続けることはありません。神の子となったからです。(3:8、9) 

 2024年4月28日(日) 第 4主日 『こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。』(ローマ 5章 1節) この世の流れ  風がやんで海が穏やかになることを「なぎ」と言います。和とは社会では対立や疎外がなく...