2025年5月3日土曜日

 2025年3月16日(日) 第3主日

『祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。』(テトスへの手紙 2章13節)

希望の福音

「永遠のいのちの望み」とは究極的には、新天新地を相続する約束のことを指しています。そこに至る前に、もう一つの大きな望みが待っています。
「イエス・キリストの栄光ある現れ」つまり、私たちを贖ってくださったお方を、この目で仰ぎ見るその日のことです。その日は「祝福されたのぞみ」と言われる日で、花婿が花嫁を迎えに来て、ついに婚礼の宴に招き入れられる日のようです。キリストは聖徒を迎えるために再び来られます。

 主イエスが来られる日、聖徒たちは、たちまち主の御許へと携え上げられます。すべての聖徒たちは甦り、主イエスが死に勝ったと同じ復活の体へと変えられます。罪なき体、永遠の命に生きるために備えられた体が与えられます。その体をもって新しい天と新しい地を相続しています。誰もが栄光の姿に造り変えられ、主イエス・キリストに似た者となるのです。祝福はここに極まります。

「主イエスの栄光ある現れ」とあるように神聖な栄光の輝きを放ち来られます。
「人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。」(マタイ 24:30)

「主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。」(Ⅱテサロニケ 1:17)聖徒にとっては祝福の日ですが、福音に従わない者にとっては裁きの日です。

 主イエス様の再臨を待ち望むことは、聖徒たちを励まし、清潔を保つこと関係します。
「このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として平安をもって御前にでられるように励みなさい。」(Ⅱペテロ 3:14)
放蕩や眠りに陥るのは、主人の帰りは遅いと思うからです。

 私たちが、主イエス様の再臨を告白しないならば希望を見失います。確実に世の終わりへと突き進んでいます。核の火種をかかえながらの紛争や戦禍による食糧難からくる物価高騰。かたや市場を折檻している物欲主義と富の一極集中化は大バビロン到来への道備えです。分断と対立をあおるばかりの社会構造の中で徐々に愛することが奪い去られて行きます。しかし、私たちは、主イエス様の大いなる栄光の輝きの現れの日を待ちます。

2025年2月15日土曜日

 2025年2月2日(日)第1主日

福音に生きる(良いわざについて)

 福音に相応しい生き方への指導が使徒ペテロからテトスに書き送られました。2000年前にクレタ島にキリスト者の群れが誕生しました。長老を選任することがテトスの務めであったことから伝道初期の群れであることがわかります。信じた聖徒も未成熟でクレタ人の気性や生活習慣を未だぬぐい切れていません。加えて「割礼を受けている人々」つまり反抗的なユダヤ人がいて家庭を核とするキリスト者集会を破壊していました。

 「徳を高める」ことを英語では、build up と言いますが、今に至るまで全教会は建て上げ続けています。人を建物に例えるならば、神を信じない生き方は土台のない、いや、間違った土台を据えた建物と言えます。 キリストを信じることでキリストを基に据えることができました。そこに建てる建物は良いわざです。良いわざに励むことはキリスト者にとって建て上げる働きであり、目指すべきところです。
「神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。」(テトス 3:8)
「キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分をささげられたのです。」(テトス 2:14)
「すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい。」(テトス 3:1)
繰り返して強調されているこのことは、全キリスト者への神の教えです。

 キリスト者にとって良いわざと神が義と認めてくださった関係はこうです。
「神は私たちが行った義のわざによってではなく、…私たちがキリストの恵みによって義と認められ」たことを知っています。罪びとを救うために来てくださったキリストを信じる信仰ゆえに神が義と見做してくださいました。神の憐れみと恵みにゆえであって、私たちの良い行い(?)では決してありません。義人は良いわざこそが似合い、悪業は似合わない衣です。

 神を知っていると口でいいながら、行いはまるで神不在のように生きている者がいますか。神は愛ですと口でいいながら、人を憎んで嫌って悪く言っている者がいますか。福音によって罪の赦しが与えられた証しながら、他人の過ちを指摘し続ける者がいますか。こうして神がその人を通して悪く言われ、神の教えがそしられるのです。キリスト者にとっての良いわざは、
「神の言葉が悪く言われることのないようにするためです。」(テトス 2:5)そして、
「私たちの救い主である神の教えを飾るようになる」ためです。(テトス 2:10)

2024年12月4日水曜日

 2024年11月17日(日) 第3主日

『ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。』ヤコブ 1章5~7節

一つであること

 両目、両足、両手で肉体は機能しています。心臓は右と左とで壁で仕切られてはいますが、一つ働きをしています。肉体に宿る魂と霊は、私の魂、私の霊であって私自身です。これらすべての統合体が、一人の私です。歴史上数えることのできない人が存在していますが、私は二人と存在しません。

 人が作り出したすべての物には名前が付けられています。「計算する人」「電脳」と言えばコンピューターです。ウィルスさえも名前が次々と付けられて行きます。名前こそ、固有の存在を示すものです。私たちに名前を付けたのは創造主で「人」とつけました。由来は、土の塵から造られたことにあります。確かに、私たちの身体の6割以上は水でできていて、あとはタンパク質や糖、そして若干のミネラルです。それが私たちの原材料で、ある人が計算したら材料費は5万円ぐらいだそうです。確かに、私たちは土の塵(ちり)です。土で造られた器は壊れやすく、かけやすい物です。人は弱い葦、すぐ消える燈心の炎、熱波が襲えば枯れてしまう草花に例えることができます。地上最強の生き物で神の作品の第1のもの「河馬:ベヘモテ」(ヨブ40:15~24)と比べてあまりにも弱いのです。しかし、その弱さを持つ人に、大きな使命を託されました。海の魚、空の鳥、地のすべてのものを支配するように言われました。

 創造主はそのように人をお造りになりました。ところが、制御できない機能もあります。舌を使って発する「ことば」です。船舶の舵は小さいものですが、大型船をあやつります。舌も小さなものですが、大きな影響力をもっています。「舌を制御することができる人は、誰もいません。」(ヤコブ3:8)それどころか絶えず迷い、後悔し、二人の私が同居しています。本来の姿から落ちてしまいました。再創造が必要です。

2024年10月31日木曜日

 2024年10月13日(日)第 2主日

神の国に入るためには

 欲しい物はネット上で探すと大抵は見つかる時代です。肝心の食料だけは手間暇かけて季節を待ってしか生じません。それどころかすぐに食糧難に見舞われます。アダムの堕落以来、食料についての定めは不変です。
「大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。」(創世記 3:17)
大切なものは神様が与えてくださいます。

 「だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」
2000年前に主イエス様は、神の国とその義を探し求め、神の国の扉をたたく者には、開かれるという約束をされました。この約束は世界中のあらゆる人々に対して告げられたもので今も有効です。

 国には領土、国民、主権が存在し、法律に基づく治世があります。国境があり、侵略すれば争いになります。同じ国民でも部族民族ごとに言語があり、文化があり、争いごとがあります。主権が独裁主義者の手中にある国民は蹂躙されています。世界中のどの国も入国制限を設けていて、滞在期間も限定していて守勢が徹底されていて相互緊張感が発生します。しかし、神の国は神の義にもとづく支配によって平和がもたらされます。キリストを通しての和解によってもたらされた神との平和と兄弟姉妹との主にある平和です。

 ニコデモと主イエス様との対話の主題は神の国に入ることです。
「まことにまことにあなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」
アブラハムの血筋によることがイスラエルの国民であり、引いては神の国に入れると考えたニコデモです。主イエス様は神の国の国民になるには御霊による新生が必要であるとニコデモに告げられました。肉と霊、地上と天国、人間の支配と神の支配、やがては消失する国家と永遠の御国とでは本質的に異なります。そこに入るには、血筋によらず、御霊による新生によって国民となります。これが神の国です。

 「私たちの国籍は天にある」使徒パウロが言った言葉です。ローマ市民権もベニヤミンの血筋もパリサイ派ガマリエル門下である名声も神の国の国籍の前には無きに等しいものです。ヨハネ黙示録7章には、神の国の光景が記されています。
 「その後、私は見た。すると身よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数え切れないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。」(黙示録7:9)
「だれでも」叩く者には開かれる御国の約束の通りに、数えることもできない世界中の人々がそこに入っています。私たちもその中に加えられて天の御国の民となることができます。

 関係性が近くなると争いが生じます。互いに敵意を内在化しながら関わっているのが現実です。私たちの祈りは、次の通りです。
「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」(マタイ6:10)

2024年10月7日月曜日

 2024年9月22日(日) 第4主日

王である主イエス様

 箴言はイスラエルの王ソロモンとマサの王レムエルとが記した全31章に及ぶ訓戒です。おおよぞ3000年前のものです。「知恵」が100回以上あり「知恵の書」に入ります。30回以上出て来るのが王に関係する箴言です。
 多神教的な神話や祭儀と一体となり国の元首が神格化された歴史があります。日本では戦時中には昭和天皇が神格化されました。昭和21年にいわゆる人間宣言によって訂正されました。「私とあなたたちと国民との間の絆は、…単なる神話と伝説とによって生まれたものではない。天皇を神とし、または日本国民は他より優れた民族だとし、それで世界の支配者となる運命があるかのような架空の概念に基づくものでもない。」(現代語訳)一方、明治神宮の祭神は明治天皇夫妻であるので生きている時はそうでも、死ねば昇華されるのでしょうか。人は永遠に人だと聖書は教えています。

 聖書中のイスラエルの王は神格化されてはいません。元はと言えば周辺諸国の王をうらやみ、祭司職を軽んじサムエルを退けた結果、与えられたのが王たちです。最初の王はサウル王です。予見者であり祭司であるサムエルによって油注がれて王になりました。メシヤの語源である任職の油注ぎです。

 イスラエル王国の祖はダビデ王です。その子ソロモン治世において神殿が完成し諸国の中でも名をあげて、繁栄と富と平和が与えられました。絶頂期を迎えますが、すでに異教化を内包していました。その子の治世において国は分裂しました。生前にソロモンが記した王への箴言には
「正義によって王は国を建てる。重税を取る者は国を壊す。」(箴言 29:4)
ソロモンの息子レハブアムは王になると直ぐに民に重税を課してしまいます。(1列王記 12:11)その結果は
「富は永久に続くものではなく、王冠も代々に続かないからだ。」(箴言 27:24)
箴言はあっても知恵が欠けていました。

 ダビデ王は星のごとく輝く王です。それでも二つの大きな過ちがあったことが記されています。絶対君主にはならないようにイスラエルの王には王と預言者と祭司の三つの職分があり、相互に独立していました。預言者は王を進言し、時には悔い改めを迫りました。祭司たちは国民の間に住み、神と人との間に立って執り成しの務めをしました。王の職分は神の正義をもとに国を治めることです。
「悪を行うことは王たちの忌み嫌うこと。王座は正義によって堅く立つからだ。」(箴言   16:12
結果は、国が滅亡しました。

 イスラエルの王たちは亡国へと国を導きました。その中での唯一の希望は、来るべきメシヤ(救い主)への待望です。その方こそが「王の王、主の主」です。同時に、民の悩みを知りつくし、自らが人々の罪を背負って死に、執り成しをなさる大祭司です。そして、預言者は神の言葉を預かる人ですが、主イエス 様は神の言葉が人となったお方です。その名は、私たちの主イエス・キリストです。このお方の治める国は、神の国であり、私たちキリスト者はその国民です。


2024年8月31日土曜日

 2024年8月11日(日)第2主日

良い行いと良いわざ

 良い行いとは、正しいことを行うことぐらいなら、誰でも知っています。律法を学んだ者なら特にそうです。その中でモーセの律法に従い安息日に労働をしないことは正しいことです。ところが、主イエスがその日に病をいやしたのを見て批判した者たちがいました。別の話では、強盗に襲われ瀕死のけが人を見ても素通りしたのはレビ人と祭司でした。神殿での神への奉仕を優先しました。律法の一つを守ることだけで正しいと思う誤りの事例です。もう一つの律法である隣人を愛することをしなかったのです。律法は、すべてを守ってこそ初めて正しいことを行ったことになります。律法の全部を知っていて全うできたお方がイエス・キリスト様です。人が、なすべき正しいことがあります。違反を認めて神と人とに対して、してしまったことを告白し、赦しをこうことです。放蕩息子の主イエスの例えは、その事例です。その点だけは、まじめな兄よりも神に対しては正しいことをしました。
 主イエス様にとって、良い行いとは律法を全うすることだけでなく、良いわざを行うことです。
「わたしは父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。」(ヨハネ 10:32)

 第1番目の良いわざは、「良いぶどう酒」の奇跡です。人は終わりに客が酔うのを見計らい悪いぶどう酒を出すものです。しかし、神の恵みは後の方が先のものにまさっています。預言者を送り続けた神は、ついに神の御子を世に送ってくださいました。福音を伝えた神は、ついに御国を完成されます。御父とはそのように恵みに恵みをお与えになるお方であることを示すこと、それが主イエスの業であり、正しいことをなすことです。

 第2に、主イエスがなさった良いわざとは、いのちの水を与えることです。ヤコブの井戸は先祖が残した貴重な良いものです。
「この水を飲む人は、また乾きます。」
そう言って主イエス様は、いつまでも決して渇くことのない、永遠のいのちへの湧き水を与える約束をなさいました。御父は求める者に、水にもまさる聖霊ご自身を、お与えになりました。

 第3に、主イエスがなさった良いわざとは、安息日に人を癒やすことです。38年病気の者に起きて床を取りて歩めと命じられ、その通りになりました。人は安息日だからと業を休みます。しかし、
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(ヨハネ 5:17)
いつも良いわざを、私たちのためにし続けてくださる天の御父に感謝します。

 第4に、主イエスの良いわざは、パンと魚を与えて養うことです。それが5000人であろうと4000人であろうとも、パンがたった5つしかなくても祝福されたパンによって満たされました。そのわざは、天の父は野の花を見事に装い、鳥に食物を与えるお方であり、私たちにも最良のものを与えるのが御父であることを教えています。
「あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」(マタイ 6:30)

 第5に、御父ご自身の側で主イエスになさった栄光の御業があります。十字架での死と葬りの後の復活です。神はイエスを死者の中から甦らせられました。こうして御父と御子が一体となって神の業がなされました。

 

 2024年7月14日(日) 第2主日

『イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいで拭きはじめられた。』(ヨハネ 13章4、5節)

弟子の足を洗ったイエス

 神が全能であると言葉で告白していたとしても、その全能の力について知っているのは、ほんのわずかです。それなのに全能の神とお呼びしているのは、神ご自身からの啓示に基づいています。天地万物創造主による宇宙と世界と全被造物は神の永遠の力や神性を示しています。そこには全能の神の知恵によって創造された世界が目の前に存在しています。

 「神が何でもできるというならば、どうしてしないのか?」そんな無理解から生じる愚問を発してしまいます。できるのにしないことも大きな能力です。主イエスは十字架上で、そこから降りることしません。御使いに命じて反対者を打つことできたのにしなかったのです。40日の断食明けの空腹時に、イエスの全能の力で石をパンに変えるようにと言った悪魔の誘惑を退けました。できることばかりに目を留めますが、しないことも能力です。

 神が人を罪から救う、つまり贖うのに、全能の力を封印された出来事、それが神の御子イエスの十字架上の死です。イエスの御父は、御子を助けることをしませんでした。
「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」
私たちを救うために弱さの極みである死をその身に受けられました。ここに神の知恵があります。救いを受けた私たちは、十字架によるイエスの死の中にこそ、神の偉大な救いの力を見出します。人が友のためにいのちを捨てることは愛です。しかし、罪びとのため、敵のために十字架の苦しみを自ら進んで受けるのは、神の御子イエスだけであり、神の愛によります。その愛をもって、イエスが弟子にされた業、それが足を洗うことです。これは本来、神が人にすべきことではなく、人が互いにするべきことです。しかも、能力によらず支配によらず、奉仕による業です。(ヨハネ 13章)
 「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」( ヨハネ13:15)
天の御父の元へ上げられ、栄光の御座に着かれたならば、もう弟子の足を洗うような立場ではなくなります。そこで、最後のイエスの愛の業として、奉仕をなさいました。イエスは、人の子として世にこられ、人に仕えるために歩まれたお方です。全能者がその全能性を肉体の中に封じられたと言えます。出来る方が、出来ない者のように生きられ、仕えられるべき方が、仕える者の姿を取って、世に来てくださったという奇跡、これも全能者の御力の現れです。

 2025年3月16日(日) 第3主日 『祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。』(テトスへの手紙 2章13節) 希望の福音 「永遠のいのちの望み」とは究極的には、新天新地を相続する約束のこ...