2024年4月3日水曜日

 2024年3月31日(日) 第 5主日

『「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪びとたちの手に引き渡され、十字架につけられて、三日目に甦ると言われたでしょう。」彼女たちはイエスの言葉を思い出した。』(ルカ24章 5~7節)

死者の復活

 春分の日を境にして昼間が長くなり続け夏至を迎えます。この頃、太陽は真東から真西へと沈み赤道の真上を通過します。南半球と北半球とが公平に太陽の光を受けます。この時期に墓参りに行くのは彼岸と此岸と接近するからと聞くと背景に自然宗教があるように思います。
 自然の上にある存在、万物の支配者である神への信仰を根源とする聖書観は異なります。自然は神のしもべであり、全能の力の輝きを現します。神の命令により太陽は留まり、日時計は逆戻りします。特に主イエスが十字架に上げられていた時、昼の12時から午後3時まで全地は暗くなり、太陽は光を失いました。(ルカ23:44、45)やがて、神の御怒りの現れりの日には、天の星々は振り落とされ、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面は血のようになる。(黙示録 6:12、13)神の正しい怒りが天体を通して示されます。

 人もまた神の命令に従い、死者は復活させられ、大いなる白き御座の前に立ち、その行いに応じた審判がくだされる日が定まっています。その御座に御子イエスが着かれます。
「人間には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているように」(ヘブル 9:27)人生には必ず報いと精算との日が待っていて、神の義にもとづいて、おのおのにふさわしい審判が下されます。

 義人は命へと復活します。その確かな保証は、主イエスは極悪人のひとりとして死罪に処せられたが、神はイエスを甦らせてイエスが義であることを公にされました。復活の証人たちが選ばれて証言している通りです。

 最後の審判を過ぎ越すことができるのは、御子イエスによる罪の赦しを信じ、義と認められた者たちです。過ぎ越しの起源は、エジプトに住んでいたイスラエル民族が脱出するその夜、子羊を屠りその血を門柱に塗った家だけは滅ぼす者が過ぎ越して行ったことにあります。(出エジプト12)過ぎ越しの犠牲の血による救いは予見でした。我々への罪の裁きが過ぎ越されるために屠られた子羊とは、神の御子イエスのことです。

2024年2月23日金曜日

 2024年2月4日(日) 第1主日

『あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。』(ルカ 24章 5節)

真の答え

 イエスの遺体が治められていた墓にガリラヤから従ってきた女性たちは週の明け方早くに訪れました。そこで良き知らせを御使いから聞かされました。悲しみの場所、亡骸が埋葬されている所で、単なる慰めの言葉とは異なる次元のメッセージを聞いたのです。それは空の墓が意味する唯一の答えです。人の思考や経験では答えが出せないで、ただ途方にくれるしかない難題です。決定的で最高の答えが厳かなうちに、光輝く御使いによって語られました。女性たちは、その尊厳さに圧倒されてひれ伏します。
「ここにはおられません。」
ではどこに。
「よみがえられたのです。」
なんと簡潔なメッセージでしょうか。だが、真実に裏打ちされた権威在る語りです。御使いが語るゆえの、権威とは別のところに核心があります。
「主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
主イエスのお言葉にこそ、空の墓と甦りを結びつけ、一切の疑念も戸惑いも晴らす答えがあるのです。知っていながら聞いていながら、空の墓を前にして、誰もが見出せません。でも答えはすでに事前にイエスが与えていたのです。これまで聞いたみ言葉が、やがて訪れる難題に向かう時にどれほど、思い出されるのか問われています。

 女性たちと今に生きる私たちとは重なり合います。空の墓を見た女性たちと同じで、今も、私の前に示されているのは空の墓です。彼女たちは復活のイエスに未だ会ってはいません。これも私たちと同じです。誰かがイエスのよみがえりを指し示し教えました。彼女たちは御使いではありましたが、重要な点は、御使いが指示した、イエスの約束ごとです。これは私たちが手にしている聖書です。そこには必要な啓示が残されています。十分なるイエスの言葉が記されています。これは、ガリラヤの女性が聞いたお言葉と同じみ言葉です。直接イエスから聞いたことと、聖書を通して聞いたことという違いはあっても、み言葉を聞いて忘れていた点ではガリラヤの女性と我々とでは変わりがありません。御使いの告げた、聞いたみ言葉を思いこさなかった点への指摘は我々へのものです。
「主が語られたお言葉を思い出しなさい。」
聖書は読み聞かされている人、覚えている人、きっと大切な時に思い起こさせてくださると信じています。途方に暮れている者への真の解決となって行く、それが聖書のお言葉でありますように。

2024年2月7日水曜日

 2024年1月14日(日) 第2主日

『彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕らえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。』(ルカ 23章 26、27節)

シモンが背負ったイエスの十字架

 ゴルゴダは十字架刑の刑場です。そこへの途上に起きた出来事の一つが、主イエスの十字架を無理やり背負わされたクレネ人シモンのことです。過ぎ越しの祭りでエルサレムに来ていたシモンのヘブル読みはシメオンですからユダヤジンと思われます。なぜ、シモンが選ばれたのか。田舎から出て来た者、都会人とは違う屈強そうな体格が目に留まったのかもしれません。しかし、神の御心が先にあって、その役割を担いました。

 犯罪人は、見せしめのために十字架を背に担わせて市中を歩かせられました。神の御子イエスが、聖なる都エルサレムで同じ目にあったことで、片隅での出来事ではなくなりました。
「主は私たちのすべてのものの咎を彼に担わせた。」(イザヤ 53:6)
イザヤの預言が、ここに成就して行きました。

 本来、私たちが背負うべきはずの刑それが十字架であり、律法学者、神に呪われた者であることを示しています。イエスの十字架をシモンが背負い拒むことができなかったのは、それは誰もが背負わねばならない、いや、すでに背負って歩んでいる、その姿を示していると思います。また、シメオンはイエスの御足後を踏み、キリストの弟子の歩みの模範を示しました。

 ついにゴルゴダに着きます。シモンの肩にかかった十字架の重には取り去られて、イエスに完全に渡されました。イエスが私たちの罪の重荷のすべてを受け取ってくださったので、私たちは、罪の重荷を取り去られました。今は、新たな使命という重荷を背負って歩んでいます。

2024年1月13日土曜日

 2023年12月3日(日) 第 1主日

『あなたがたに言いますが、「彼は不法な者たちとともに数えられた」と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現するのです。』(ルカ 22章37節)

数えられたイエス

 イエス・キリストが降誕した時にローマ皇帝アウグストは帝国下の人々に住民登録を義務付けました。今風に言えば、占領地に住む人々にも I D 登録と納税義務を紐づけされたわけです。この出来事によって、イエスもまた人として数えられました。同時にダビデの子孫としての証明がされました。

 唯一の神が人として数えられています。神は数えられるべきご存在ではなく、まして人の中に混ざり合うことなどありえません。それでもなお、人となられた目的は、神との和解を実現する仲介者となるためです。
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(第 1 テモテ 2:5)
 十字架上での主イエスの祈りは、最期まで罪びとのために執り成しをする姿そのものです。
「父よ。かれらを、お赦しください。彼らは、何をしているか分かっていないのです。」(ルカ 23:34)
 その時、イエスはまぎれもなく犯罪人の一人に数えられ、神に呪われた者たちと共に十字架に処せられました。イザヤ書 53 章 2 節の通りです。

 使徒パウロはローマの市民権を有していました。持たない者には金を払ってまでも欲する価値のあるものでした。
 『けれども私たちの国籍は天にあります。』(ピリピ 3章18 節)
 天国籍は、比べることもできない価値ある国籍です。第1に、神よりの恵みによって与えられるものだからです。第 2 に、永遠に続く神の御国だからです。バビロンは滅びました。大バビロンも必ずや神が裁き滅びます。第 3 に、神の国民には永遠の命の約束が伴い与えられます。国民の命を守ることが国家の務めだとすれば、神の国の国民には永遠の命と幸いとが与えられます。第 4 に、イエス・キリストこそが王であり主として治められる国です。平和の君、万民のために罪の代価としてご自分の命をささげられた愛なるお方です。天国の民の一人として数えられる者は幸いです。


2023年12月4日月曜日

 2023年11月12日(日) 第2主日

『そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。』(ルカ 21章27節)

異邦人の時

 エルサレムでの主イエスの説教は、ご自分の身に十字架での死が迫る中で、話は人々の上に必ず臨む滅亡のことに向けられています。
 エルサレム滅亡の語りは、非常に具体的なものでした。訪れの知らせは、エルサレムが軍隊に包囲されることです。その時には「逃げなさい」。主イエスの説教を無視して、なおも都の中に留まる者、あえて都に戻る者には、神の御怒りによる大きな患難にあいます。剣の刃に倒れ、捕虜として連れて行かれます。キリスト者は、災いから逃れて別の町で生き延びました。

 「異邦人の時が満ちるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」神の御怒りは一定の期間であり、「異邦人の時が満ちるまで。」と定められています。時が満ちれば回復がやってきます。歴史の語る通り、ローマ軍が城壁を破壊して踏み込み、神殿の聖所内にあった金の燭台をはじめ、奉献品を戦利品としました。神殿のあった場所にはイスラム教のモスクが今も建っています。オスマン帝国など、諸外国の統治下におかれてきました。イスラエル建国が現実となった今でも、神殿はなく、西壁が民族にとっての礼拝場所です。

「異邦人」の意味は神が祝福の契約を結んだアブラハムの子孫、ヤコブの子孫の側から見て、それ以外の諸国民を指します。「異邦人の時」とイエスが言われた意味あいは、エルサレムは元より、この世界の支配や統治が異邦人の手の中に置かれる期間を言い、御国を来たらせたまえと祈らざるをえない期間です。神の義や聖や憐れみを知らない者が君主となり治めるのですから。

 イエスが十字架刑に処せられる前にユダヤ最高議会を開き、有罪判決をくだし、イエスを異邦人の手に引き渡しました。やむなくローマ総督ピラトは死罪を言い渡しました。イエスを異邦人の手に引き渡してしまったことで、自分たちが異邦人に引き渡される苦い運命を招くことになりました。異邦人の支配は不幸で戦争を繰り返します。(使徒2:36、3:13~15

 使徒パウロは「異邦人の時」を説き明かしています。
「この奥義を知らずにいてほしくありません。イスラエルの一部が頑なになったのは異邦人の時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ 11:25)
今は、異邦人の季節です。刈り入れは世界中です。キリストが来て異邦人の支配を終わらせます。「エルサレムに優しく語りかけよ。…その苦役は終わり、その咎は贖われている、と」(イザヤ40:2)

2023年10月30日月曜日

 2023年10月29日(日)

『いつも油断せずに祈っていなさい。』( ルカ21章36節 )

油断大敵

 ルカ21章のイエスの説教は、間近に迫るエルサレムの苦難と世界中に臨む天変異変による災難、ついに主イエスが来られて今の時代の終わりが来ることが語られています。総じて警告的です。
「その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことがないように、良く気をつけていなさい。」(34)
「あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(36)
「イエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山ですごされた。」(37)そこにはゲッセマネの園があり、イエスは御父である神にひざまずいて祈りをなさいました。苦しみ悶えながら、いよいよ切に祈られました。(22:44)十字架への道を決断し立ち上がられました。

 共にいた弟子たちにも、祈るべきことがありました。
「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」(22:40)注意すべきは誘惑です。惑わしと誘惑は、サタンの常套手段です。神に従うよりも罪を犯すことの方が見るにうるわしく、食べるのに良さそうに思えるのです。主イエスの弟子として召されたものは、その召しに従うことが最も幸いです。従うことが損に見えてしまうことの中に、誘惑が仕組まれています。誘惑に陥らないために祈りが必要です。

 油断しない人は、万事先だって祈ることを習慣にしている人だと思います。十字架の死を前にしてイエスはいつものように祈られました。弟子にも大誘惑を控えて祈るように指示されました。すべての出来事が突然のように思われても神にはそうではありません。先だってすべてをご存知です。

かつ、神は事前に必要を備えておいてくださいます。何事もいつもの通りだと思う所に油断が生じます。
「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」
ことが起きる先に祈ることで平安が与えられます。



2023年9月28日木曜日

 2023年9月17日(日) (第 3主日)

権威論争

 ルカ福音20章には三つの論争が記されています。権威論争、納税義務論争、復活論争です。挑んできたのは祭司長、律法学者、長老たちです。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」
イエスはこの者たちに逆に質問されました。バプテスマのヨハネに関わることで、その権威の出どころを尋ねた質問です。預言者ヨハネは、イエスがキリストであることを指示した偉大な神の器です。そのヨハネが、イエスを高く挙げてこう言います。
「私などは、その方のくつのひもを解く値打ちもありません。」(マタイ 3:16)ヨハネの権威を否定すれば、自分たちに石が飛んでくることが分かっています。さりとてイエスの権威を認めたくはないのです。(マタイ3:16)そこで「知りません」と返答しました。自分たちの許可も得ず宮の商売人を追い出すイエス。宮で毎日自由に教えるイエス。イエスの教えに熱心に傾聴する人々。これ以上は我慢できず、イエスを総督に引き渡そうと計ります。

 イエスは明確な答えを語られました。悪い農夫のたとえ話で、ぶどう園の作り主が長旅にでるので農夫に貸しました。収穫期になり、分け前を受け取ろうとして三度も、しもべたちを送りますが、傷を負わせ辱めて追い返しました。そこで持ち主は最終手段を講じます。わが子ならば敬うだろうと、愛する息子を送ります。しかし、最悪をもって報います。「あれは跡取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」

 イスラエルには、神が遣わした預言者たちを拒み殺した歴史があります。(マタイ23:37)イエスとは、神が最終手段として遣わした神のひとり子です。このたとえには、イエスがなぜ殺されるのか、誰が殺すのかが明らかにされています。既得権益を主張する者たちが、真の支配者であり所有者である神に敵対します。イエスを都の外のゴルゴタ(しゃれこうべ)で十字架の上に架けて殺しました。イエスのたとえは、敵がしようとしている悪行を前もって明かす内容でした。しかし悔い改めません。
『きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。』(ヘブル 3:7、8)

 2024年3月31日(日) 第 5主日 『「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪びとたちの手に引き渡され、十字架につけられて、三日...