2023年10月30日月曜日

 2023年10月29日(日)

『いつも油断せずに祈っていなさい。』( ルカ21章36節 )

油断大敵

 ルカ21章のイエスの説教は、間近に迫るエルサレムの苦難と世界中に臨む天変異変による災難、ついに主イエスが来られて今の時代の終わりが来ることが語られています。総じて警告的です。
「その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことがないように、良く気をつけていなさい。」(34)
「あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(36)
「イエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山ですごされた。」(37)そこにはゲッセマネの園があり、イエスは御父である神にひざまずいて祈りをなさいました。苦しみ悶えながら、いよいよ切に祈られました。(22:44)十字架への道を決断し立ち上がられました。

 共にいた弟子たちにも、祈るべきことがありました。
「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」(22:40)注意すべきは誘惑です。惑わしと誘惑は、サタンの常套手段です。神に従うよりも罪を犯すことの方が見るにうるわしく、食べるのに良さそうに思えるのです。主イエスの弟子として召されたものは、その召しに従うことが最も幸いです。従うことが損に見えてしまうことの中に、誘惑が仕組まれています。誘惑に陥らないために祈りが必要です。

 油断しない人は、万事先だって祈ることを習慣にしている人だと思います。十字架の死を前にしてイエスはいつものように祈られました。弟子にも大誘惑を控えて祈るように指示されました。すべての出来事が突然のように思われても神にはそうではありません。先だってすべてをご存知です。

かつ、神は事前に必要を備えておいてくださいます。何事もいつもの通りだと思う所に油断が生じます。
「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」
ことが起きる先に祈ることで平安が与えられます。



2023年9月28日木曜日

 2023年9月17日(日) (第 3主日)

権威論争

 ルカ福音20章には三つの論争が記されています。権威論争、納税義務論争、復活論争です。挑んできたのは祭司長、律法学者、長老たちです。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」
イエスはこの者たちに逆に質問されました。バプテスマのヨハネに関わることで、その権威の出どころを尋ねた質問です。預言者ヨハネは、イエスがキリストであることを指示した偉大な神の器です。そのヨハネが、イエスを高く挙げてこう言います。
「私などは、その方のくつのひもを解く値打ちもありません。」(マタイ 3:16)ヨハネの権威を否定すれば、自分たちに石が飛んでくることが分かっています。さりとてイエスの権威を認めたくはないのです。(マタイ3:16)そこで「知りません」と返答しました。自分たちの許可も得ず宮の商売人を追い出すイエス。宮で毎日自由に教えるイエス。イエスの教えに熱心に傾聴する人々。これ以上は我慢できず、イエスを総督に引き渡そうと計ります。

 イエスは明確な答えを語られました。悪い農夫のたとえ話で、ぶどう園の作り主が長旅にでるので農夫に貸しました。収穫期になり、分け前を受け取ろうとして三度も、しもべたちを送りますが、傷を負わせ辱めて追い返しました。そこで持ち主は最終手段を講じます。わが子ならば敬うだろうと、愛する息子を送ります。しかし、最悪をもって報います。「あれは跡取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」

 イスラエルには、神が遣わした預言者たちを拒み殺した歴史があります。(マタイ23:37)イエスとは、神が最終手段として遣わした神のひとり子です。このたとえには、イエスがなぜ殺されるのか、誰が殺すのかが明らかにされています。既得権益を主張する者たちが、真の支配者であり所有者である神に敵対します。イエスを都の外のゴルゴタ(しゃれこうべ)で十字架の上に架けて殺しました。イエスのたとえは、敵がしようとしている悪行を前もって明かす内容でした。しかし悔い改めません。
『きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。』(ヘブル 3:7、8)

2023年9月8日金曜日

 2023年8月20日(日) 第3主日

『イエスは答えて言われた。「わたしはあなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」』ルカ 19章40節

王の入場 

 王位を授かって遠い国から戻って来た主人が、出かける前に10人のしもべたちに与えておいた10ミナで、如何に商売をしたのか報告を求め、それぞれに相応しい報いを与えるというイエスの例え話があります。報いとは別に、王に着くことを望まなかった国民に対しては厳しい審判をくだします。この例えには、将来、主イエスが王の王として諸国を鉄の杖を持って治める来臨の約束が語られています。もう一つには、例え話のすぐ後に続く、主イエスが王としてエルサレムに入場する出来事と繋がっています。

 弟子たちの一群は、イエスを王として認め、大喜びで神を賛美し、こう言いました。
「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」
その賛美にふさわしく平和の君としてのイエスは、軍馬ではなく柔和なろばの子にのり、兵士を伴うことをせず主の弟子を伴い、王冠や剣を一切身につけず、喜びと賛美と平和のうちに現われました。まさに預言者が告げていた通りです。
 「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも雌ろばの子の子ろば。」(ゼカリヤ 9:9)
約束のキリストが王としてエルサレム来られたことのしるしは、「子ろば」に乗るお方です。

 子ろばの調達は、ユニークで神の方法です。主イエスはすべてを知っていました。子ろばが隣村に繋がれていること。二人の弟子が行って、それをほどこうとすれば、持ち主から問われたら、「主がお入り用なのです」と返答すべきことばの指示も事前に与えています。それどころか、昔、ゼカリヤにあらかじめこのことを神が告げておられました。神は御心の実現のために、子ろばを備え、ご主人の心を変え、乗り物を用意されたのです。王としての権威が見事に証される一言が「主がお入り用なのです」それ以上の説明を要しません。いやそれこそが、最大の説明であり必要性なのです。必要としてくださること自体が光栄なことです。果たしてオリーブ山を登り下りする勾配のある坂道を、イエスを乗せた子ろばが、全行程完遂できたのか…。

 イエスは、エルサレムに着き、最後には十字架の道へと歩まれます。そこにはイエスのたとえ話に出て来る、主が王であることを望まなかった敵が待ち受けていました。イエスが十字架にかけられた時「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてありました。主イエスは、まぎれもなく王として死なれたことを証しています。やがて王の王イエスは来られます。

2023年8月1日火曜日

 2023年7月16日(日)第 3主日

神との和解

 聖書には、地球は6日間で人と生き物が住む最上の環境が完成したと記されています。そよ風一つ欠けても、平均気温が2度狂っても、人も、植物も、生存が危ぶまれます。太陽と地球の距離も数パーセントの狂いも許されません。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」との神の祝福の言葉に応えることができる地球は、「非常に良かった。」と神は語っておられます。

 人はあらゆる生き物を支配し、管理する任務が与えられました。人の最初の住まいはエデンの園です。そこから枯れない泉が湧き出てて川となり全地を潤します。元の世界の環境は、すべてが良かったのです。

 人もまた、最初は非常に良いものでした。というのも、神はご自身に似たものとして人を創造されたからです。神は最良の助け手として女を男から造り出し、一体の夫婦が誕生しました。アダムはエバを愛し、夫婦とその子たちとが暮らす共同体が誕生しました。

 最初の夫婦は蛇の誘惑にあい、善悪を知る木からとって食べてしまいました。これが初めての罪です。結果、死が全人類に及び、良いものだった地には、とげがあり植物の生長を妨げる、いばらとあざみを生じるようになりました。ついには、楽園を失い追放されました。人は都市を築き、バベル(乱れ)の塔のような天を突く町を作り暮らしています。地球の管理人である務めに人は失敗しています。今や絶滅危惧種のリストが増加中です。

 一つの罪が、アダム夫妻の子どもカインによる殺人の悲劇を生み出しました。やがて万物創造の神に変えて、自分たちの神々を作り出します。神は、人間の欲望のまま歩むにおまかせになりました。殺人、戦争、破壊、人命の売り買い、神の定めた道を変えてしまいます。どれもこれもしてはいけないことです。しかし、誰もそれを止めることができません。

 神の御怒りは、やがて、こうしたことのすべてに下されます。風はやみ、夜も昼も光が 3分の 1に減じるとき、神の怒りが啓示されるのを知ります。しかし、いまは恵みの時です。というのも、ご自分の御子イエスを人として世に送り、罪に対しての処罰を、イエスが代わって受けてくださいました。それが十字架の苦しみと死です。この福音を信じる者は、神との和解を得ることができます。その証拠は、イエスの死者の中からの甦りです。主イエスが神と人との唯一の仲介者です。神との和解による平和を得てください。
「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。」(ローマ 5:11)

2023年6月23日金曜日

2023年6月11日(日) 第 2主日

『立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』(ルカ 17章9節)

放たれた小鳥

 主イエスによってツァラートを清められた一人のサマリア人に向かい、立つこと、行くことを命じられました。ひれ伏して感謝の礼拝を捧げている者に立てと命じ、主イエスが遣わす所へ行けと命じられました。

 「行け」には、主イエスからの平安が伴いました。「あなたの信仰があなたを救ったのです。」その信仰で十分であるとイエス自らが保証してくださいました。こうして「義人は信仰によって生きる」(ロ-マ 3:10)その歩みの土台が定められ、その信仰生活が開始しました。

 「立ち上がって行きなさい。」は神の御子イエスの宣言です。主イエスが癒やし、主イエスがきよめ、主イエスが解放と自由を与えました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためにではなく、律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ 5:17)

 律法によればツァラートとは、表面に生じた症状を祭司が律法に照らし「汚れ」に相当すると宣告し、また回復を認めました。続いて祭司は二羽の小鳥を用意させます。水の入った器に一羽の小鳥の血をたらし、その水を7度本人に振りかけて初めて清いと宣言しました。残りの一羽は野に放たれました。野に放たれた小鳥は「行きなさい」と言われたイエスの御言葉を象徴しています。(レビ記14章)私たちは汚れから、キリストの血により、きよめられました。律法の拘束から解かれて自由を得ました。

「あなたの信仰が」
 癒やされたのはイエスに願った10人全員です。しかし、真の解放と自由を得たのはサマリア人たったひとりです。9人との違いは、明確です。イエスの元に戻り、ひれ伏し神への感謝をささげた点にあります。自分の身の上に起きた出来事を、迷うことなく主イエスの御業だと信じました。他の9人はどうしたのでしょう。主イエスの御業だと認めなかったのでしょうか。

 正しい信仰は正しい結果を生み出します。信仰はその実によって知られるというのを示す出来事です。主イエスの身元に私たちも行きます。「安心して行きなさい」「立ち上がって行きなさい」と御言葉がかけられます。

 

2023年6月15日木曜日

 2023年5月7日(日)第 1主日

ルカ 16章1~8節

 主イエスのたとえにお金の話が出てきます。当時のユダヤ人の硬貨はレプタとシュケルです。偶像やローマ皇帝のデザインが施されていなかったのでエルサレム神殿の献金はこの硬貨でした。レプタ1枚を献金した婦人の硬貨は最小単位の青銅貨です。イスカリオテのユダはイエスを売った代価として銀貨30枚(シュケル硬貨)を受け取りました。後に神殿に投げ込みましたがその硬貨は「血の代価」として除外されました。価値は銀の相場で決定されたとしても、神の義と言う規準が厳然と存在しています。

 放蕩息子に登場する息子は、盗みという不正はしませんでしたが、財産を快楽のためだけに使い果たしました。ついには豚の餌を恵んでもらいたいと願い、物乞い以下にまで身を落としました。

 主イエスのたとえには、その続きがあります。お金を不正に使い込んでいたひとりの管理人がいました。ご主人の財産を無駄遣いしていました。隠れた罪は発覚し、神の義によって不正が明らかにされる時が間近に迫りました。その時、不正な管理人は悔い改めて謝罪するどころか、ご主人が得るはずの財産を失うようにしてしまいます。ご主人の債務者たちを呼んで、油や小麦の売掛金を大幅に値引きました。仕入れ数量を油百バテから50に、小麦百コルを80にと証文を書きかえさせたのです。

 放蕩息子と不正な管理人に共通するのは、第1に、授かった財産を乱費し、天の父である神に罪を犯した者が赦されただけでなく、咎めもせずむしろ評価されている点です。

 両者の異なる点は、放蕩息子は苦難の日に助けてくれる友が一人もいませんでした。しかし、真に悔い改めて、そのままで父のもとにかえり救いを得ました。他方管理人は罪の悔い改めが見られません。しかし、「賢く行動する」とほめられたのは、ご主人の富で自分を救おうとしたからです。お金の世界には神の義が存在します。しかし、それと同じほどに神の憐れみと赦しが注がれています。債務が赦されるこの幸いは、神による罪人への赦しを示しています。キリストが我らの友となり、債務をご自分の血で支払ってくださいました。我らの債務証書そのものを無効にしてくださいました。

2023年5月7日日曜日

 2023年4月23日(日) 第 4主日

『一人の罪びとが悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。』(ルカ 15章  10節)

 失われた一匹の羊を捜して連れもどした羊飼いの話と、なくした1枚のドラクマ銀貨を捜して見出した女の人の話をイエスはなさいました。その目的は、失われたひとりの罪びとを捜して救い出すためにイエスが来られたこと。そして、罪びとと呼ばれる者との食事は、見出された喜びを共に祝っている宴席だと教えられました。銀貨 1枚、羊 1頭でさえ見つかれば近所の人と喜び合うのだから、失われた人が連れ戻されたのだから、その喜びはいかばかりでしょうか。それを伝える第 3弾の例え話は、戻って来た放蕩息子です。

 父に財産をねだり遠国へと旅立った息子は、放蕩三昧の末にどん底に落ちてしまいました。空腹で目の前の豚の餌さえも欲している自分のみじめさに目が覚めました。軽んじていた父の家だったが、そこに在る恵みの豊かさに気づきます。それ以上に、天の神への反抗の罪を悔い改め、来た道を引き返しました。神を神として崇めず感謝もせず、それ故にその心は空しくなりました。美しく見えた物は虚像であり、成れの果てが、みじめな罪人です。

 イエスが天の御父より遣わされ世に来られた目的は、失われた一人を捜して救うためです。御子をこの世に遣わされたのは天の御父です。イエスが教えようとされたのは、天に居ます御父の罪びとへの愛と赦しです。

 父の元から遠国に行き放蕩三昧の果てに、どん底に陥った息子は、目が覚めて悔い改めました。悔いた遜りの心で父の元に向かいました。すると
「まだ、家まで遠いのに父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」咎め立てせず、一切を赦し受け入れてくださいました。御父はイエスを世に遣わした程に世の人々を愛しておられます。

「かけよって」の一言は、その立ち返る姿を見て天の御座から身を乗り出すかのようです。放蕩した息子が言ったように、
「私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。」
人が犯す罪とは、そのように天におられるイエスの御父への罪です。御子イエスを通して、悔い改めて許しを願う者を御父は必ず受け入れてくださいます。更には、神の子どもとなる大いなる特権が与えられます。天の御父のそばにいる御使いと共に喜び祝ってくださいます。

 2025年12月21日(日) 第3主日 『主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。』 詩篇138篇8節  神の作品には、途中で放置されたままのものはありません。太陽、月、星、植物、生き物に至る...