2023年5月7日(日)第 1主日
ルカ 16章1~8節
主イエスのたとえにお金の話が出てきます。当時のユダヤ人の硬貨はレプタとシュケルです。偶像やローマ皇帝のデザインが施されていなかったのでエルサレム神殿の献金はこの硬貨でした。レプタ1枚を献金した婦人の硬貨は最小単位の青銅貨です。イスカリオテのユダはイエスを売った代価として銀貨30枚(シュケル硬貨)を受け取りました。後に神殿に投げ込みましたがその硬貨は「血の代価」として除外されました。価値は銀の相場で決定されたとしても、神の義と言う規準が厳然と存在しています。
放蕩息子に登場する息子は、盗みという不正はしませんでしたが、財産を快楽のためだけに使い果たしました。ついには豚の餌を恵んでもらいたいと願い、物乞い以下にまで身を落としました。
主イエスのたとえには、その続きがあります。お金を不正に使い込んでいたひとりの管理人がいました。ご主人の財産を無駄遣いしていました。隠れた罪は発覚し、神の義によって不正が明らかにされる時が間近に迫りました。その時、不正な管理人は悔い改めて謝罪するどころか、ご主人が得るはずの財産を失うようにしてしまいます。ご主人の債務者たちを呼んで、油や小麦の売掛金を大幅に値引きました。仕入れ数量を油百バテから50に、小麦百コルを80にと証文を書きかえさせたのです。
放蕩息子と不正な管理人に共通するのは、第1に、授かった財産を乱費し、天の父である神に罪を犯した者が赦されただけでなく、咎めもせずむしろ評価されている点です。
両者の異なる点は、放蕩息子は苦難の日に助けてくれる友が一人もいませんでした。しかし、真に悔い改めて、そのままで父のもとにかえり救いを得ました。他方管理人は罪の悔い改めが見られません。しかし、「賢く行動する」とほめられたのは、ご主人の富で自分を救おうとしたからです。お金の世界には神の義が存在します。しかし、それと同じほどに神の憐れみと赦しが注がれています。債務が赦されるこの幸いは、神による罪人への赦しを示しています。キリストが我らの友となり、債務をご自分の血で支払ってくださいました。我らの債務証書そのものを無効にしてくださいました。
0 件のコメント:
コメントを投稿