2022年11月22日火曜日

 2022年9月18日(日) 第3主日

『私は生まれた時からあなたに抱かれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。私は多くの人にとって奇跡と思われました。あなたが私の力強い避け所だからです。私の口にはあなたへの賛美が、あなたの栄えが絶えず満ちています。年老いたときも、私を見放さないでください。私の力が衰え果てても、見てないで下さい。』
(詩篇 71:6~9)

胎内にいる時から年老いる迄

 私たちは、胎内で神によって直接の御働きにより成長しました。
「それはあなたが私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」(詩篇139:13)
その人となりもまた、胎内ですでに始まります。双子の兄弟ヤコブと兄のエサウとは、母の胎内にいる時から祝福継承の争いをしています。兄エサウのかかとをつかんだままヤコブは生まれてきました。やがて、長子の祝福を受け継ぐことになります。

 人が誕生した時に、母の胎から取り上げ、その子を腕に抱いたのは、神であると詩篇の作者は言います。私の人生の最初を知っておられるお方は、その後も、私は神に知られていました。「私は多くの人にとって奇跡と思われた。」詩篇の作者は自分のことを奇跡の人と言います。幾度も危険から守られてきました。その人生は、神を賛美し続ける人生でもあります。

 奇跡の人も年重ねて、力が衰え、年老いていく自分を見ています。栄えに満ちていた時代は徐々に過去のものとなって行きます。人から奇跡の人と評価を受けたはずが、孤独の人となっていきます。しかし、その時、神は私の神であり続けてくださいます。胎内の私を組み立て、出産のときにそこにおられて腕に抱きあげてくださった神。あらゆる危険から何時も守ってくださった避け所である神は、一生涯、私を担ってくださいます。

2022年7月11日月曜日

 2022年6月19日(日) 第3主日

『しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。』(ルカ 10:2)

72人が喜んで帰って来た

漁師は、大量旗をかかげて戻ってきます。
狩猟の報いは、その肩にある獲物です。種まき労苦した農夫の報いは、刈り入れ時にあります。
 神の国を宣べ伝える者にも収穫の喜びがあります。主イエスによって派遣された72人は喜んで戻ってきてイエスに報告しました。
「主よ、あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえも私たちに服従します。」
伝道した弟子たち自身が誰よりその結果に驚きました。イエスの御名のもつ力に圧倒されました。悪霊どもでさえもが従うのです。

 イエスが天にあげられてからペテロとヨハネは、イエスの御名を用いてある人に命じました。
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
するとたちまち立って歩きだしました。イエスの御名の権威が証された出来事です。

 罪の赦しは、イエスの御名によって与えられます。
「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(ルカ 24:47)
信じた者が受ける父子聖霊の御名によるバプテスマもしかりです。

 キリスト者は、第1に喜ぶべきことがあります。たとえ主の弟子のように、蛇やさそりを踏みつけ、悪霊を追い出すことができたとしても、それで喜んではいけません。
「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
天国籍を有していることは何にもまさる賜物です。
「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス。キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ 3:20)
主イエスは、御父の元に行く日を待ち望みながら、十字架への道を歩まれました。


2022年6月3日金曜日

 2022年5月8日(日) 第2主日

『これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。』(ルカ 9章28、29節)

「イエスが祈る姿」

人は神に祈ります。神はみこころに適う願いを聞いてくださいます。ルカ福音書においてイエスは祈るお方です。また、祈りについてイエスほどに豊かに教えた方はいません。イエスにとっての祈りは、神ご自身とのお交わりそのものでした。御子が御父に祈る姿を弟子たちは幾度も目撃しました。

 バプテスマを受けた後にイエスは祈っておられました。
「イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、自分の上にくだられるのをご覧になった。」(ルカ 3:21、22)
その結果、聖霊が臨み、父である神のお声かけがありました。

 12使徒を選ぶに当たり御父に祈られました。
「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」(ルカ 6:12)
その結果、福音を伝えるために村々に弟子たちは派遣されて行きました。

 ご自分の受難と復活とを弟子たちに告知するに当たり祈られました。
「さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちが一緒にいた。…人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらなければならないのです。」(ルカ 9:18)
弟子たちにも、自分を捨てて従うようにと教えられました。

 イエスが祈られたところ、そこが天国になりました。
「イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために山に登られた。」(ルカ 9:28) 
その結果、イエスは栄光に輝き、天国にいるモーセとエリヤと会見し、最後には天の御父の御声が聞こえました。

 イエスが祈られた後には、必ず、神のご計画が前進して行きました。ついには、十字架と復活と昇天、そして再臨へと神の救いの計画は進んで行きます。今も、主イエスは御父の右の座にいて執り成しをなさっています。


2022年5月20日金曜日

 2022年4月17日(日) 第3主日

『これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしく、わたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物はありますか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。』(ルカ 24章36~43節)

目で見たこと

 聖書には予め主イエスの甦りについて記されていました。「あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」(詩 16:10)その通りに、十字架上で息ひきとり、墓に葬られ、三日目に神はイエスを甦らせられました。
 証言者は500人以上いましたが、イエスの弟子の中でも初めから従い続けた者たちは特に復活の証人となりました。イエスの復活は弟子たちによる創作物語ではありません。十字架上でのイエスの死は、弟子たちの心をくじき、一心に従ってきたゆえの喪失感と恐れの中にありました。弟子のひとりトマスは、イエスを見たとの仲間の言葉にも懐疑的でした。

 イエスの甦りを正確に理解するのには、三度のイエスの顕現を要しました。
一度目は20:29「こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。」
二度目には20:29、『イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」』
三度目は、「まさしく、わたしです。わたしにさわって、よく見なさい。」

 証人のひとりヨハネは、イエスの復活の確かさをこう記しています。
「目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」(1ヨハネ 1:1)

 2022年3月6日(日) 第1主日

『ある日のことであった。イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちは舟を出した。舟で渡っている間に、イエスは眠り始められた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、彼らは水をかぶって危険になった。そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます。」と言った。イエスは起き上がり風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」』(ルカ 8章 22節~25節)

どこにあるのですか

 もし私ならばどうしただろうか。弟子たちは、突風により大波をかぶって舟もろとも沈みそうです。命の危険が迫る中で、きっとこの口が叫び出すことでしょう。「主よ、お助けください。」
 幸いなことに、天地万物創造の主を知る者となりました。「主の御名を呼び求める者は救われる。」(ローマ 10:13)と約束されています。その主とは、私たちのイエス・キリストのことです。

 弟子たちは命の危険迫る中でどうしたのでしょうか。自分たちの窮状を、必死で訴えました。「私たちは死んでしまいます。」この叫びは主イエスを目覚めさせました。主イエスの一言で風も水もおさまりましたが、イエスは弟子に向かっては、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか。」
 パンを用意するのを忘れたのは不注意に過ぎません。ところが、信仰を置き忘れて舟に乗るのは一大事です。荒れ狂うガリラヤ湖上で信仰がどう働くか。大切な時にこそ、信仰は力となります。

2022年5月16日月曜日

 2022年2月27日(日) 第4主日

『さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、大勢の人のためにそばに近寄れなかった。それでイエスに、「母と兄弟方が、お会いしたいと外に立っておられます」という知らせがあった。しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」』(ルカ 8章19~21節)

聞いて行う人々

 イエスは「種をまく人の種のたとえ」を弟子に解き明かし、「種は神のことばです。」(8:11)と説明されました。種を蒔くお方がイエスだとすれば、イエスの言葉は神のことばそのものです。聞く側の姿勢が問われています。

 第1に、自ら進んで耳を傾けるべきです。「聞く耳のあるものは聞きなさい。」
 第2に、正しい良い心で聞くべきです。「だから聞き方に注意しなさい。」
 第3に、語っておられるお方イエスに聞くべきです。「彼の言うことを聞きなさい。」
 信仰は聞くことから始まるとパウロも聖書から引用しています。イスラエルは、神のことばに対して聞こうとしなかった歴史があります。(ローマ 10:17)実を結ぶことができませんでした。

 「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれだも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録 3:20)
 私が、初めて聞いた聖書のお言葉です。まさに主イエスからの語りかけで応答できました。

 聞いて行う人々は「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです。」(8:21)
 まず、主イエスご自身は、御父のお言葉を聞き、それが、十字架の死であろうとも、その通りに行われました。それが父と子との関係です。兄弟姉妹との一致は、同じ御言葉を聞き、それを行おうとすることにあります。

2022年2月8日火曜日

 2022年1月2日(日) 第1主日

『あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義にさだめられません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。』(ルカ 6:36、37)

神にならう者

「ですから愛されている子どもらしく、神にならう者になりなさい。」(エペソ 5:1)と勧められています。実に高尚にして及びもつかぬ目当てに思えます。肉における親の徳にさえ及ばない者が、どうして天の神に似ることなどできえましょうか。なのに、はばかることなく勧められています。「神に愛されている子どもらしく」というのが勧めの動機です。

 キリスト者が神の子だからと言って、能力や容姿が神に似ているわけではありません。ならうべきは、神の聖さであり、神の愛であると聖書には教えられています。キリスト者は、もはや、この世にならう者ではありません。(ローマ 12:2)ならうべきは神のみです。

 模範は主イエスです。神の御子イエスは、天にます私たちの父である神と一体のお方です。御父を知り尽くしておられるイエスの生涯は、御父の栄光の表れそのものでした。イエスご自身も断定しておられます。
 「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(ヨハネ 14:9)

 主イエスのいつくしみと憐れみを受けた者ならば、それにならい、人にも同じくするはずです。罪の赦しを受けた者ならば、それにならい人の罪を同じようにすることが求められています。そうしないことは、新たな罪となることでしょう。(マタイ 18:35)

 導き出される事は、キリスト者が、神に似ているとすれば、他者に対して、あわれみ深いことであり、他人の罪をさばかないことであると言えます。

 2025年12月21日(日) 第3主日 『主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。』 詩篇138篇8節  神の作品には、途中で放置されたままのものはありません。太陽、月、星、植物、生き物に至る...