2019年8月31日土曜日

2019年8月11日(日) 第2主日

「子どもたちよ。あなた方は神から出た者です。」(Ⅰヨハネ4:4)

霊的出自

 「神から生まれた者」が、キリスト者です。その人々の帰属意識の第1は、国籍は天にあり、そこにおられる御父である神の子どもに属している自分です。ですから「神の国とその義とをまず第1に求めなさい。」(マタイ6:33)そのことからしたら、国籍、血筋は第2義的なものです。会社、地域、血族関係は生きていく上で大切なものです。時に「うちの会社」と呼ぶほど親密です。そうした親密表現「うちの教会」と言う場合もあります。教会のうちに居るのか、外に立っているのか、考えてみる必要があります。教会に出席することが、神のうちに居ることと必ずしも同義ではありません。天国に入った人についてだけは間違いなく全員が神のうちにいます。

 「誰でも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人の内におられ、その人も神のうちにいます。」(Ⅰヨハネ4:15)
 まず、主イエスに対しての信仰です。人となってこられたイエスを神の御子と公に告白している人は、神のうちにいます。同時に、神もその人のうちにおられます。そのことは、「神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。」(Ⅰヨハネ3:24)

 信じた者が受けた御霊が、教えてくださることは、神の愛です。漠然とした愛ではなく、「ひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。」(Ⅰヨハネ4:9)
 神と私とが、どれほどに近い関係にいるか、それを示しているのが神からの愛です。
「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。」(Ⅰヨハネ4:16)
 
 主イエス・キリストが神の御子であることを信じています。罪のない方が、十字架で身代わりとして死んでくださったことを信じています。そして、神が私たちを救うために、御子をそのようにして、お遣わし下さったことを知りました。神の救いを信じた者は、その時、知ることになります。すでに神の愛のうちに自分がいることを悟ります。
 私たちの出自は、まぎれもなく神にあります。

2019年8月8日木曜日

2019年7月21日(日) 第3主日

『子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。  父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。
小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。』
(Ⅰヨハネ2章12~14節)

私たちの確信

 偽物が現れる時代に、Ⅰヨハネの手紙は書かれました。「反キリスト」とは、その際たるもので、キリストの名は使いますが、その実は、神に敵対する者、サタンの働きによります。「今それが世に来ているのです。」とまで言われています。実際、異なる教えに従い出て行く者が起き、少なからぬ動揺が群れに生じました。(2:19)偽りの力が台頭してきました。そこで、本物と偽者との違いを鮮明にし、かつ、勝利者の群れであることを思い起こさせようとします。光とやみ、神の子と悪魔の子、真理と偽りとの表現がそれをものがたります。この手紙により、読んだ信仰者には確信を与え、ますます主の命令の中にとどまるようにと教え諭そうとしました。
 執筆目的はこうです。
 「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」(5:13)

 キリストを信じた自分を見直す事が確信への道です。罪赦された者。初めからおられた方キリストを知った者。悪い者に勝った者。キリストの御父を知った者。強い者であり、キリストのみ言葉が留まっている者なのです。
 そして、何よりも神の愛を知った者です。

2019年8月7日水曜日

2019年7月14日(日)第2主日

『私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もし誰かが罪を犯したのなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。』(Ⅰヨハネ2章1、2節) 

信じた後に犯す罪

 ヨハネ第1の手紙は、神の御子を信じて、永遠のいのちを得た者にむけて書かれています。(Ⅰヨハネ5:13)信仰をもつ以前、あるいはバプテスマを受けてキリストに従うまでの罪については、福音書を読むと明らかです。
姦淫の女の罪をゆるしたイエス。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」(ヨハネ8:11)
罪人と呼ばれていたザアカイを見出して救うお方イエス。(ルカ19)
極めつけは十字架でイエスと共に処刑された犯罪人の一人の救い。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)
間違いなく、どんな罪人でも、あるいは、いかなる罪であっても、主イエスを信じる者は赦されます。
 では、信じた後のキリスト者の罪はどうなるのでしょうか。
 
 第1に、私たちは神の愛を信じています。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」(Ⅰヨハネ4:10)
 神の方からの愛と赦しによって救いを受け取りました。重々承知の上で、お救いくださいました。
 
 第2に、キリスト者の罪のための神の怒りは御子イエスの十字架によって過ぎ去りました。
 「この方こそ、私たちの罪のための、なだめの供え物なのです。」(2:2)
 以前には、神の怒りをなだめるために、多くの動物の生贄が全焼としてささげられました。(創8:21、レビ4:31)

 第3に、キリスト者のために主イエスは弁護してくださいます。義なるイエス・キリスト、人となり、一度も罪を犯すことのなかったお方こそが、神の前における私たちの弁護者です。

 第4に、キリスト者は、もはや罪の内を、継続的に歩み続けることはありません。神の子となったからです。(3:8、9) 

2019年7月1日月曜日

2019年6月30日(日) 第5主日

「あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21章22節)

1.最後の証人となった使徒ヨハネ

 主イエスの使徒たちは、主の御名のゆえに、ほぼ全員が殉教を遂げました。ゼベダイの子で使徒ヨハネの兄弟ヤコブはヘロデ・アグリッパ1世(44年没・ヘロデ大王の孫)により剣で殺されました。大使徒とも評されていたペテロは、ネロ皇帝下で殉教したと言われています。そんな中、最後の生き残りの証人なったのが使徒ヨハネです。その大きな目的は、聖書66巻を完成させるために神が用いたことです。ヨハネ福音書、ヨハネ黙示録、Ⅰヨハネ Ⅱ、Ⅲの手紙がそれです。

2.神の愛を知ったヨハネ

 ヨハネは、その福音書中で、自分のことを「イエスが愛された弟子」(21:20)と言い、それを証拠づけるように、最後の晩餐ではイエスの側近の座(右の座)にいたと紹介しています。「神は愛です。」(Ⅰヨハネ4:16)「私たちに愛がわかったのです。」(3:16)いずれもヨハネの言葉です。神がまず私たちを愛されました。その愛は、ひとり子を賜ったほどの愛です。その愛はイエスによって知る事ができました。今度は、私たちが神を愛するようにと促されます。神を愛するとは、主にある兄弟姉妹を愛することです。そして、自発的に主イエスに従って行くことです。

3.愛に答えて従ったヨハネ

 ヨハネ福音書は、イエスの愛に答えて、主に従って行く二人の弟子、ペテロとヨハネとの絡みつきで閉じて行きます。ペテロは、イエスから「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と問われる事、三度でした。応答の後にイエスに従い行きました。他方、ヨハネも同じく、イエスの後に従いましたが、言われて従う弟子ペテロとは違い、自ら進んで従いました。「わたしに従いなさい」との御声を、自分への招きの言葉として受けとめたのです。私たちも、同じようにして、ある時代のある人々への神の語りかけが、自分たちへのものでもあることを知っています。

2019年6月23日(日) 第4主日

『あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。』(ルカ15章10節)

人はなぜ生きるのか

 誰かに喜ばれていることを知る時に、嬉しくなります。逆に嫌われていると思うと、辛く悲しいものです。小さな子どもたちが、喜んで大人のお手伝いをする姿を見ると、幼い時から、人のために役にたつことは楽しい事だと知っているようです。人からの最高の声掛けは、次の言葉だと思います。

 ―また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」―(マタイ3:17) この声かけは、主イエスへの天から聞こえた声です。愛するがゆえに、その存在自体が喜びである、そう言葉にして告げる、これが主イエスと天の御父とのご関係です。

 主イエスは、人に嫌われ、ついには、十字架につけて殺されたお方です。

 病を癒し、死者を甦らせ、食べ物を与え、ひたすらに人に仕え、与え続けられたお方なのに、死の他は何も報いがありません。それでも、主イエスの天の父である神に喜ばれる事をし続けられました。ついには、私たちの罪の身代わりのためにとご自分のいのちを捨ててくださいました。終わりまで天の御父の御こころを行い、神に喜ばれる道を歩まれたのがイエスです。 

 私たちが、生きる意味を知ろうとするならば、第1番目に、私たちを創造した神、私たちを愛し、ひとり子を与えて下さった唯一の神を信じる事から始まります。良い行いによってではなく、御子イエスを信じる者を、あたい無しで赦すことができる神を信じることです。その時、神が私たちの罪を赦し、義と認めてくださいます。神に愛される、子どもとなります。

2019年6月1日土曜日

2019年5月19日(日) 第3主日

『兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。』(ヨハネ19:25~27)

イエスの十字架のそばにいた人々

 主イエスが十字架につけられた時、多くの人々がイエスをそしり、あざけりました。しかし、そのただ中で、主イエスの側に立った者たちがいました。

1.アリマタヤのヨセフの生き方
 ユダヤの議員でヨセフと言う人です。「この人は、議員たちの計画や行動には同意しなかった。」(ルカ23:50、51) 大多数がイエスを死罪だと叫ぶ中で、ヨセフは孤高の道を選択しました。りっぱな、正しい人で、神の国を待ち望んでいたと呼ばれる所以です。ヨセフは、誰もがしようとしなかった、否、できなかった特筆すべき行動に出ました。主イエスの体を十字架から取り降ろし、未使用の墓に丁重に葬りました。結果、「彼は富む者と共に葬られた。」(イザヤ53:9)とのイエスの埋葬の預言が実現しました。

2.勇気と決断
 間違っていることに同調しないことには、大きな勇気が必要だったはずです。ヨセフを、りっぱな人と呼ぶにふさわしい所以は、この決断と実行力です。正しいことを行おうとする時、恐れて弱くなりがちです。「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ4:17) キリスト者が、罪意識にさいなまれるのは、この事柄です。神に喜ばれること、あるいは、喜ばれないことを知りました。罪が何であるかも知りました。しかし、なお、欠けているのは、行おうとする決断と勇気です。その力はどこから来るのでしょうか。

3.神の国を待望する信仰
 ヨセフの信仰の特徴は、次のように言われています。「神の国を待ち望んでいた。」(ルカ23:51) 人間による支配と権威は終わり、神の直接的支配が実現する日、つまりキリストの到来を待望んでいました。神の国は神の義が支配する世界です。不正は消えて義の光が照る世界です。その実現を待望する人は、ヨセフのように、正しく歩みます。

4.私たちの希望と誇り
 主イエスの地上再臨により、神の国が到来します。その日を待ち望むのは、私たちも同じです。そして、主イエスの「十字架を決して恥とはしません」と、パウロも言いましたが、私たちも十字架を恥とはせず、誇りとします。
2019年5月12日(日) 第2主日

「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:3)

 ギリシャ語で頭骸骨を表すクラニオン「どくろの地」、ヘブル語ではエルサレムの近くにある丘の名前で「ゴルゴタ」と呼んだ処刑場がありました。そこでイエスは二人の犯罪人と共に十字架につけられました。預言者イザヤが告げた苦難のしもべ、そのままにイエスは、人々からさげすまれました。 

1.道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」(マタイ27:39) 

2.祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」(:41~43)

3.イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。(:44)十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。(ルカ23:39)

4.ローマの兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。(ルカ23:36、37)彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわってイエスの見張りをした。(マタイ27:35、36)

5.主イエスは、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(1ペテロ2:23) それどころか、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と祈られました。
主イエスは、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。(1ペテロ2:24)


 2025年12月21日(日) 第3主日 『主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。』 詩篇138篇8節  神の作品には、途中で放置されたままのものはありません。太陽、月、星、植物、生き物に至る...