2019年1月6日日曜日

2018年12月23日(日) 第4主日

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」           ピリピ2章6~9節


主イエスの誕生に見る栄光

イエスは生まれてすぐに飼い葉桶に寝かされました。ルーツをたどれば、ヨセフも母マリヤもイスラエル国の王、ダビデの子孫です。1000年の昔の栄耀栄華は、すでに地に落ちて久しく立ちました。しかし、神の計画が始まりました。救い主がベツレヘムで誕生されました。

一見、惨めで、不憫に思える赤子です。神は忘れておられるのか。神の祝福はないのか。そもそもローマ皇帝アウグストが住民登録の勅令を出すからこんな目にあうのだ。神抜きの人生観はそうつぶやきます。

神の光を、そこに照らす時に神の栄光を見るのです。キリスト、救い主たる真正な証拠、それが飼い葉桶に眠るみどりごです。「これがあなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:12) わかる人にはわかるのです。キリストの十字架の死もまた、同一線上にあります。飼い葉おけ、御子イエスの十字架の死と復活は、神の知恵と力の結集なのです。(1コリント1:14)

東方の博士はキリスト誕生を星の出現により確信しました。長い旅路を経て、ついにエルサレムにつきました。新たな王を王宮に尋ねます。そこは、幼子の殺害を謀るヘロデ大王が居座るところです。そこにはキリストはおられません。星の再出現により導かれた博士たちは、ダビデ王の出生地ベツレヘムでついに幼子に出会います。持参した黄金、乳香、没薬を幼子におささげしました。求める人、尋ねる人にはわかるようにしてくださいます。

夜空に輝くオリオン座はいにしえから神の栄光を指し示していました。(ヨブ9:9、38:31、アモス5:8) しかし、野に咲く草花もまた、神の栄光をあらわしています。「栄華を極めたソロモンでさえ、このような花のひとつほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、」(マタイ6:29、30)

人が作り出し、ほめそやす栄光は、草花一輪にさえ及びません。栄光の神の御子を世に送られた御父は、もっとも地の低い所におかれました。しかし、飼い葉お桶であろうと、みどりごであろうと、神の御子としての栄光は失われません。天から御使いの軍勢が共に下り、大合唱します。「いと高き所に、栄光が、神にあるように、地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)

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