2024年7月14日(日) 第2主日
『イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいで拭きはじめられた。』(ヨハネ 13章4、5節)
弟子の足を洗ったイエス
神が全能であると言葉で告白していたとしても、その全能の力について知っているのは、ほんのわずかです。それなのに全能の神とお呼びしているのは、神ご自身からの啓示に基づいています。天地万物創造主による宇宙と世界と全被造物は神の永遠の力や神性を示しています。そこには全能の神の知恵によって創造された世界が目の前に存在しています。
「神が何でもできるというならば、どうしてしないのか?」そんな無理解から生じる愚問を発してしまいます。できるのにしないことも大きな能力です。主イエスは十字架上で、そこから降りることしません。御使いに命じて反対者を打つことできたのにしなかったのです。40日の断食明けの空腹時に、イエスの全能の力で石をパンに変えるようにと言った悪魔の誘惑を退けました。できることばかりに目を留めますが、しないことも能力です。
神が人を罪から救う、つまり贖うのに、全能の力を封印された出来事、それが神の御子イエスの十字架上の死です。イエスの御父は、御子を助けることをしませんでした。
「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」
私たちを救うために弱さの極みである死をその身に受けられました。ここに神の知恵があります。救いを受けた私たちは、十字架によるイエスの死の中にこそ、神の偉大な救いの力を見出します。人が友のためにいのちを捨てることは愛です。しかし、罪びとのため、敵のために十字架の苦しみを自ら進んで受けるのは、神の御子イエスだけであり、神の愛によります。その愛をもって、イエスが弟子にされた業、それが足を洗うことです。これは本来、神が人にすべきことではなく、人が互いにするべきことです。しかも、能力によらず支配によらず、奉仕による業です。(ヨハネ 13章)
「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」( ヨハネ13:15)
天の御父の元へ上げられ、栄光の御座に着かれたならば、もう弟子の足を洗うような立場ではなくなります。そこで、最後のイエスの愛の業として、奉仕をなさいました。イエスは、人の子として世にこられ、人に仕えるために歩まれたお方です。全能者がその全能性を肉体の中に封じられたと言えます。出来る方が、出来ない者のように生きられ、仕えられるべき方が、仕える者の姿を取って、世に来てくださったという奇跡、これも全能者の御力の現れです。
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