2019年4月30日火曜日

2019年4月21日(日) 第3主日

その大能の御業のゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。(詩篇150:2)

主をほめたたえよ

 キリスト者が日曜日に集まり、神への感謝と賛美をささげるようになったのには、特別な理由があり、古いものが過ぎ去り、全く新しくする出来事があったからです。モーセ以後、厳守されてきた土曜日安息日とは、6日間による天地万物創造の完成を記念し、7日目が聖日となったことが起源です。それが日曜日へと変わったのは、キリストの復活によります。

 「人の子は安息日の主です。」(マタイ12:8)とイエスが言われたように、その日は、「主の日」です。死者の中からの復活された日は、イエス様の日と呼ぶにふさわしい日です。キリスト者が集まる理由の一つです。

 天地創造とその世界は、偉大な神の栄光を現しています。同じく創造主の大能の現れ、それが、神の御子が三日目に死者の中から甦られたことです。その体は栄光の御体であり、罪と死に完全に勝利されました。朽ちもせず、汚れもせず、永遠に生きることができる、栄光の体へとイエスは復活されました。

 キリスト者が、イエスの復活された日に集まるようになったのは当然と言えます。やがて、主イエス様がもう一度来られる日が来ます。その時、聖徒たちの体も、イエス・キリストと同じ栄光の体へと変えられるのです。その日もまた、主の日と呼び待望します。キリストの復活は、すべての聖徒たちにとっての希望です。

 主イエスの甦りの朝は、「週の初めの日」です。労働を禁じた安息日があけて、働きを開始する日です。主イエスの復活された日は、春の祭りのひとつである「初穂の祭り」で、麦の穂を祭司が捧げる特別な日でした。イエスの復活を「初穂」(Ⅰコリント15:20)と呼んでいます。復活時代の到来であり、宣教時代の幕開けです。全世界にイエスの御名が宣べ伝えられています。

2019年4月14日(日) 第2主日

『わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。』
                        ヨハネ17章11節


              イエスの願い

 主イエスの公生涯、つまり神の子キリストとして使命を果たした期間は3年ほどです。その間に、弟子を召し、育て、守り、父である神を明らかにされました。地上での使命を閉じようとするに先立ち、弟子たちがいる所で、父である神に語りはじめられました。その願いの言葉には、イエスとはいかなるお方かが示されています。

1.天におられる神の御ひとり子です。
 イエスと神との関係の1番目は、父と子です。目を天にむけてイエスは言われました。「父よ。」ご自分については、「あなたの子が」と願いを告げられています。モーセ、ダビデ、サムエル、誰ひとりとして、神と自分との関係を、そのように告白はしていません。

2.永遠のいのちを持つお方です。
 イエスはナザレで生まれ、十字架で死んだお方です。肉体をとり、人のもついのちを、イエスも聖霊により授かりました。しかし、イエスは、天地万物創造の先より、すでに、父である神と共に在られたと語られています。唯一の神と共におられた御子、そのいのちは永遠です。イエスこそ、万物の創造主であり、万物の存在目的でもあります。

3.天の父のもとから世に遣わされた御方です。
 その目的は、父である神の御名を世に明らかにすることです。罪人を悔い改めさせ、救うためです。その弟子を召して育てるためです。罪の身代わりとなり、多くの人のための代価としてご自分のいのちを捨てることです。十字架はそのためです。イエス・キリストの使命です。

4.栄光の主です。
 すべてを支配する権威を神より授けられたお方です。いっさいの裁きの権威をもっておられます。最後の審判において、白き御座に座してすべての人を裁くお方はイエスです。御使い、聖徒たちからの賛美と礼拝を受けるにふさわしいお方です。「ほふられたこひつじは、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしいお方です。」(黙示録5:12)

5.私たちのため祈られたお方です。
 「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」(ヨハネ17:24)

2019年3月30日土曜日

2019年3月17日(日) 第3主日

『わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。』ヨハネ16章7~11節

              助け主

 イエス・キリストの御名には、罪からの救い主という意味合いが込められています。「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12)

 救い主イエスが、弟子に遣わすと約束されたお方は、「助け主」です。
このお方をおいて、主イエスから賜った助け主は、他にはおられません。

「助け主」の呼び名には、「弁護者」という意味合いが込められています。困った時には、助けの手を差し伸べてくださるヘルパーと言うよりも、不当な判決を翻し、踏みにじられている者の側に立って擁護し、真理をもって喝破し、世にその過ちを認めさせる真理の御霊です。

 主イエスが弟子たちに助け主を送ると約束されたのは、弟子たちが遣わされる世が、主イエスを信じないからです。過ちを認めようとしない不義が支配する世だからです。そして、神の御子を不当な判決のゆえに、十字架刑に処して殺した世だからです。その世に弟子が派遣され、罪を責め、過ちを認めて悔い改めさせ、かつ、はじめからの偽りものサタンに向かって行くのです。弱い弟子たちで、立ち向かえる相手ではありません。

 主イエスが遣わす御霊こそが「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」助け主、弁護者の説得力を得た、弟子たちは、大胆に主イエスとその復活を語りました。悔い改めて信じる者がおおぜい起こされました。「人々は、これを聞いて心を刺され」(使徒2:37)

 過ちと知りつつも怖れて「へつらいのことばを用いたり」する誘惑があります。だからこそ助け主が必要です。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(Ⅱテモテ1:7)

2019年3月10日(日) 第2主日

『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。』ヨハネ15章13~15節
           
その友のために

主イエスの弟子たちとイエスとの関係は、実にユニークです。

 第1に、主イエスに礼拝をささげています。
弟子のトマスはイエスに対してこう言いました。「私の主。私の神。」(ヨハネ20:28) 主イエスは礼拝を拒むどころか、かえって、こうさとされています。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」弟子たちは明らかにイエスを神であると告白しています。

 第2に、主イエスの方が弟子の足を洗います。
近づきがたい栄光の主であるはずなのに、イエス自ら進んで弟子の足を洗っておられます。これは、愛の証です。神の在り方を捨てて、しもべとなりイエスは、神と人とに仕えられました。

 第3に、主イエスは弟子たちにはご自身を隠されませんでした。
山に上り、そこで栄光の輝く姿へと変貌されました。選ばれた弟子には、実の御姿を見せて、隠されませんでした。御独り子としての栄光です。
ゲッセマネの園では、十字架の死を前に、イエスが苦悶の祈りをささげる姿を、弟子たちに見せられました。父である神の前におけるイエスの弱さです。強さも弱さも、共にイエスは弟子に隠さずに示したのです。

 第4に、イエスは弟子を友と呼ばれました。
しもべと友とでは分かち合える度合いが違います。友には信頼して、心をわって語ることができます。「人がその友のために命を捨てること」これが人のもつ最高の愛の行為です。主イエスの十字架での身代わりの死は、神が世を愛して御独り子を与えたほどの愛です。主イエスにとっては、友のために死なれた最高の愛なのです。

2019年2月28日木曜日

2019年2月17日(日) 第3主日

『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』ヨハネ15:5

          枝はおろされず草は刈られず

農夫とぶどうの木、枝とその果実を例に、十字架上での死の前夜イエスは弟子を教えられました。旧約イザヤ5章でも似た話が出てまいります。ぶどう畑の主は、あまいぶどうのなるのを待ち望みつつ、山腹を掘りおこし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植えました。豊かな収穫を見据えて、見張り台をたて、更には、ぶどう汁のしぼり場までも作っておきました。ところが、出来た実はおいしくない、酸いぶどうでした。その結果主は、あれ廃れるままに放置しました。「枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。」主の期待を裏切ったのです。

私たちの存在目的を教えています。花を咲かすことでさえもが、果実を実らせるための一過程です。自分たちが何かをなしえたとすれば、それは主がなされたのであり、主がお喜びになるためです。私どもを愛と喜びと期待をもって養い育てておられるのです。だから絶えず、主のご介入があるのです。見かぎられていない証拠です。余分な枝はおろされます。

2019年2月10日(日)  第2主日

『イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」』ヨハネ14章22節

             世に勝った

「世」とは、社会としての生活の場であり、流もあれば時もあります。たとえば、「千代に至る祝福」は、主の戒めを守る者に及ぶ幸いですが、個人の領域を越えて、社会全体に、あるいは幾世代にも及びます。
 
 ノアとその家族を例にとるならば、当時の世は、神の道を乱し、暴虐が満ちていました。しかし、ノアは、生活の場が、たといそうであったとしても、主の道を歩み通しました。大洪水によって当時の世界とその世とは滅びました。唯一、義人ノアとその家族は救い出されました。その祝福は、代々に及び、今に至ります。ノアの子セムへ、セムの子孫テラへ、テラの子アブラハムへ。アブラハムはダビデへ。そして、ダビデの子孫としてこられた、私たちの主イエス・キリストへと到達します。千代をはるかに越える「永遠の命」の祝福として、イエスを信じる者すべてに及びます。
 
 主イエスがこられた「世」は、ユダヤの王はヘロデ大王で、主の降誕を知って幼児を殺害しました。イエスが公生涯を開始される時の預言者ヨハネを斬首したのが、息子のアンティパス。イエスが捕らわれた時に会っています。ヘロデ大王の孫アグリッパ一世は、パリサイ派と協力して使徒ヤコブを処刑しました。主の使いはこのヘロデを打ち、虫にかまれて息絶えました。(使徒12:23)アグリッパ2世(ヘロデ大王曾孫)は、捕えられた使徒パウロから直々に証しを聞き、心動かされます。10年ほどしてエルサレムは、ローマ軍の侵攻を受けて陥落しますが、ローマの側についた人物です。
 主イエスの降誕、公生涯の開始、使徒達の宣教開始、使徒パウロの宣教という、神の救いの御業が現れた時代。世は、これを悟らず、むしろ世はこれを憎みました。神の国に敵対し続けたのが世でした。

「この世を支配する者が来るからです。」(ヨハネ14:30)
とイエスが言われたのはサタンのことです。
「全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。(1ヨハネ5:19)
これが当時を生きたヨハネの証言です。
では、神の支配はいかに。イエスは言われます。
「わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)
 そのお方から「助け主」が遣わされました。そのお方を受け入れる者が神の子どもたちです。この世は、なおも神の忍耐と慈愛が注がれ続けています。しかし、暴虐が地に満ち、神の道を乱しています。信じる者たちは、イエスへの愛とその現れを待ち望んでいます。

2019年2月2日土曜日

2019年1月27日(日)第4主日 


「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」」                     ヨハネ14章6節

             道・真理・いのち

主イエスはその弟子に、神を信じると同様にご自分を信ぜよと言われます。また、ご自分を指して、「道、真理、いのち」であるとも言われました。

そのように言い切ることのできるお方は、イエス以外には知りません。

聖書中、道を指示した大いなる預言者はバプテスマのヨハネです。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」と叫びましたが、自分に関しては、「私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。」(ルカ3:16)と言っています。皆が悔い改めて自分を正す事が、イエスを迎える道備えであり、ヨハネはイエスを指示した人であって、自分自身が道であるなどとは言いません。

それに対してイエスは、ご自分が道であると言われます。その道とは、イエスの御父である神に至る道です。その事は「真理」であると断定されています。その証拠は、「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。」「わたしを見た者は、父を見たのです。」イエスと御父との完全なる一体性にあります。(ヨハネ14:9、10)

「いのち」の道と滅びの道とがあります。御父の家へと向かうか、それとも永遠の滅びへと向かうかは最重要です。言うまでもなく、イエスは御父の家の住まいへと導くお方であり、そのために場所を備えに行くと言われます。

滅びに至る道の先導者がいます。私こそがキリストであると言う反キリストの霊です。サタンのために備えられたゲヘナへと誘おうとする道です。もう一つには、どの道でも救いに至ると教える者です。人が道を尋ねているのに、どれでも結局は、同じだと言う人は、迷いに導く人です。これらは、滅びに至る道です。救いの道は、一つで「わたしを通しでなければ、」。

主イエスはいのちへと導くお方です。御国の門で「わたしはあなたがたを全然知らない。」(マタイ7:23)と言われてしまえば、外の暗闇へと追放されます。逆に主イエスに知られている者はパラダイスに入ります。

十字架にイエスと共につけられた犯罪人の一人は、イエスこそが道であると信じて、死の間際に、いのちに至った人です。犯罪人は一つの願いをしました。「イエスさま。あなたの御国の位におつきになるときには、私を思い出してください。」イエスは言われました。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:42)
イエスこそが救いの道です。

 2025年12月21日(日) 第3主日 『主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。』 詩篇138篇8節  神の作品には、途中で放置されたままのものはありません。太陽、月、星、植物、生き物に至る...