2019年1月6日日曜日

2018年12月30日(日)第5主日

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」           ピリピ2章6~9節

            きわみまで愛された

イエスの弟子ヨハネは、主イエスから足を洗っていただいた時の体験をヨハネ福音書13章で書いています。サンダルを脱いで、床に座って食事をする習慣ですから、足を洗うたらいの水と手拭いを用意するところから始まります。イエスに従う女性たちは、ナルドの香油を注ぎ(ヨハネ12)、感謝の涙でイエスの足を濡らし髪の毛でふきました。(ルカ7) 実に美しい光景が記されています。他方、弟子たちはと言えば、鈍感で主イエスのためであってもたらいに水を用意さえしません。(ルカ7:44) ましてや弟子同士で足を洗いあうことなど思いもつかないことです。

こともあろうに師であり主であるイエスが、たらいに水を用意するところから始めて、ひとりひとりの足を洗い始められました。この行為の中にヨハネは、イエスの弟子への愛を見ました。 「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」13章冒頭に、その意味合いを最初に開示してある通りです。

さすがに鈍感な弟子でも、イエスに足を洗ってもらうのですから、戸惑い気後れします。しかし、主イエスからの愛ですから、無条件に受けるべきなのです。もし拒めば、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(ヨハネ13:8) 受けたのですから、今度は同じようにして、相互に愛しあうべきと学びました。イエスの弟子たちがどの群れとも異なるしるしは、互いに高ぶらず、僕となり、仕えあうのです。

今年は、様々な現場でのハラスメントの実態が明らかになりました。人がする嫌がらせは、相手を傷つけます。上の者が下の者へ、あるいは、その逆もあります。主イエスの足洗いは、ハラスメントとは真逆にして最高の徳性です。いつイエスは足を洗われたのか。「父が万物を自分の手に渡された事と、ご自分が父から来て、父に行くことを知られ」(ヨハネ13:3) 最も高いお方が、最も低い僕になられました。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」

主イエスは足を洗い清めるどころか、私どもの罪と汚れのすべてを十字架において処罰し、その血をもって清めてくださいます。それを信じて受けるならば、愛を受け取る関係が生まれます。

2018年12月23日(日) 第4主日

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」           ピリピ2章6~9節


主イエスの誕生に見る栄光

イエスは生まれてすぐに飼い葉桶に寝かされました。ルーツをたどれば、ヨセフも母マリヤもイスラエル国の王、ダビデの子孫です。1000年の昔の栄耀栄華は、すでに地に落ちて久しく立ちました。しかし、神の計画が始まりました。救い主がベツレヘムで誕生されました。

一見、惨めで、不憫に思える赤子です。神は忘れておられるのか。神の祝福はないのか。そもそもローマ皇帝アウグストが住民登録の勅令を出すからこんな目にあうのだ。神抜きの人生観はそうつぶやきます。

神の光を、そこに照らす時に神の栄光を見るのです。キリスト、救い主たる真正な証拠、それが飼い葉桶に眠るみどりごです。「これがあなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:12) わかる人にはわかるのです。キリストの十字架の死もまた、同一線上にあります。飼い葉おけ、御子イエスの十字架の死と復活は、神の知恵と力の結集なのです。(1コリント1:14)

東方の博士はキリスト誕生を星の出現により確信しました。長い旅路を経て、ついにエルサレムにつきました。新たな王を王宮に尋ねます。そこは、幼子の殺害を謀るヘロデ大王が居座るところです。そこにはキリストはおられません。星の再出現により導かれた博士たちは、ダビデ王の出生地ベツレヘムでついに幼子に出会います。持参した黄金、乳香、没薬を幼子におささげしました。求める人、尋ねる人にはわかるようにしてくださいます。

夜空に輝くオリオン座はいにしえから神の栄光を指し示していました。(ヨブ9:9、38:31、アモス5:8) しかし、野に咲く草花もまた、神の栄光をあらわしています。「栄華を極めたソロモンでさえ、このような花のひとつほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、」(マタイ6:29、30)

人が作り出し、ほめそやす栄光は、草花一輪にさえ及びません。栄光の神の御子を世に送られた御父は、もっとも地の低い所におかれました。しかし、飼い葉お桶であろうと、みどりごであろうと、神の御子としての栄光は失われません。天から御使いの軍勢が共に下り、大合唱します。「いと高き所に、栄光が、神にあるように、地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)

2018年12月1日土曜日

2018年11月25日(日) 第4主日

しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。      ヨハネ12章13節~16節
           今の栄光のちの栄光
 主イエスの行動には一つ一つに意味があります。それを見ていた者は後で気づきました。イエスの御業、お言葉、計画、後にわかったすべてをヨハネが書こうとしても書ききれないほどであると告白しています。
 主の行動が後でわかったのは、ラザロの甦りです。主が愛されたラザロが危篤なので来て癒してほしいとの使いの言葉に、イエスは2日の間そこに留まり続けられました。イエスにとっては、行くか行かないか、あるいはいつ行くか、万事に御心があり、意味がありました。一時の猶予も許されない中でも、2日滞在し続けられました。イエスの計画は病を癒す事にはなく、甦らすことにありました。結果は、イエスは死後4日目に墓の前に立ち、ラザロをよみがえらせられました。主の計画はゆっくりではあっても確実です。
 ラザロの甦りの意味することをヨハネたちは後になって知ります。「わたしはよみがえりです。いのちです。」(11:25)と事前に言われたように、ほかでもない、主イエス自らが甦られたのです。しかし、誰もが、イエスの墓の前で復活の朝を待っていた者はいません。万事、栄光をお受けになってみて、あの時の主のお言葉を思い起こして行くのです。
私たちが知っている事、聞いている事、理解している事、きっと栄光の主が来臨される時には、イエスの弟子たちのように、これらのことがイエスについて書かれていたことだと悟り、驚くことでしょう。
 シバの女王(現イエメン)がソロモンの名声を聞き、ためそうとしてやってきました。「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。…聞いたうわさよりはるかにまさっています。」(Ⅰ列王記10:7) ヨハネは、イエスについてこう言います。「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」(ヨハネ21:25)
神の備え得ておられることは、人の想像をはるかに越えます。
2018年11月11日(日) 第2主日
十字架の言葉は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」Ⅰコリント1章18節19節
             十字架の福音 
 表題の聖書箇所は、使徒パウロが、ギリシャ地方で伝道してできた教会に当てて書いた手紙です。ギリシャは知の巨人を輩出した土壌です。最高の賢者との評を受けたソクラテスは答えました。「自分自身が無知であることを知っている人間は、自分自身が無知であることを知らない人間より賢い。」パウロはこう言います。「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」(1:20)ソクラテスは知恵者に順位をつけました。パウロは、神は、知者を愚かとされたと告げました。現代は、いずれを土台にしているのでしょうか。
 聖書では、「主を恐れることは、知恵の初め。これを行なう人はみな、良い明察を得る。」(詩篇110:10)創造主を崇め、同時に自分を神の前に低くすることから万事知恵は始まります。もし、それができるならば、神の創造作品である世界を通して、創造主である神を知ることができるはずです。
学者の知恵の言葉に対し、パウロは自らが語る神の知恵のことを「十字架のことば」と表現しました。人間の知恵と神の知恵のぶつかりあいです。圧倒的に軍配は神の知恵にあがりました。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」(1:19)
 パウロの語る福音とは、神の御子キリストが、十字架で死に、三日目に復活したのです。それは、本当の出来事であり、それを信じる者は誰でも救われるのです。自分の罪を認めない人には、キリストの十字架の死は蔑みでしかありません。神の力も奇跡も信じない人には、キリストの復活は興味を失わせるたわごとでしょう。しかし、自分の罪を知り、神に救いを願う者に、神の隠された知恵キリストなのです。キリストの十字架は、私のために身代わりです。キリストの甦りは私の罪の赦しの保障です。
 神の知恵は、人が凡そ思い浮かぶはずもない行為となって現れました。キリストによる救いは、人間の知恵の探求ではありません。信仰は、神の大いなる御業の上に土台を置いているのです。

2018年11月5日月曜日

2018年10月28日(日) 第4主日

しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。
ヨハネ11章50節~52節
                
 大祭司カヤパはイエス時代のエルサレム神殿での最高聖職者です。その人はイエス殺害提案をした人です。国家、国民の保全保障のためには、イエスの死が、時の権力者ローマへのなだめの効果をもたらし、結局は得策になると言いました。政治レベルでの発想でカヤパは言ったつもりが、主イエス様に限っては、神の救いの計画の預言となったのです。
政治レベルでは、多くの人が困窮しているのに、一部の人のみに富みが集中している場合の得策は富の再分配です。悪しき王が国民を蹂躙し多くの国民が苦しんでいる時の得策は政権打倒でしょう。国家安全という大義のためには軍備増強は正論でしょうか。国にお金がない時、国民の負担を増すのは国策です。何が得策かのせめぎ合いの場が政治です。
個人レベルでは、10人前を11人で分けるのは解決策です。レギュラーポジションは分割できないので争いになります。相続財産争いがあるのは、互いに分けあうのが不得手な証拠です。誰が得かで違いがでます。

 一人の人の犠牲が多くの人を救いうることは、塩狩峠で客車の暴走をくいとめるために自分の命を犠牲にしたキリスト者永野信夫がその良い例です。
大祭司カヤパは、大所高所の視点から、国家、国土、神殿の保全のためには、イエスの殺害は得策だと言ったつもりでした。しかし、神の視点でとらえれば、神の御ひとり子イエスの、一度かぎりの犠牲は、万民を救うためになる、最善至高の方策なのです。神の怒りと裁きによって滅びるばかりの国民を、救い出す方策は、御子イエスの十字架による死です。

2018年10月15日月曜日

2018930() 第5主日

「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」 ローマ613

宣教教カンファレンス開催

祈り準備を進めてきた宣教カンファレンスを24()に開催できました。まずは世界宣教の基礎的な事を学びたいとの趣旨でしたが、その如くに、説教者の小川牧師よりは最も大切なこととして、まず「古い自分に死ぬ」ことだと教えられました。ガラテヤ220節が読まれました。自分を否定し、自分を神にささげることが宣教の実践であることからしたら、これは重要な霊性であることに気付きました。すでにキリストにあって古い自分は死んだ者であることをたえず確認し続けて行くことを学びました。自我を抱き、祝福をねたみ、不純なままでの自分に気付きました。その問題から解かれ、そして自分をささげることが大切であることを知りました。ローマ613節が読まれました。

第2集会では、「祈らないことの失敗」を聖書の聖徒たちを例に具体的に教えを受けました。まず祈り求める事を実践すべきであって、これを怠れば失敗が待っている。逆に教会が一致して祈り求めるならば主は答えてくださる。そのことを千里ニュータウン教会の実例から教えを受けました。主の働きは方策には決してよらず、ひとえに霊性に拠ることを知りました。聞いてそれを行うかどうかが、問われた説教でした。

ボリビアの子どもたちの女子施設「MEGIMI」の立ち上げについて秀子先生がご自分の体験から語られました。路上にいる虐待を受けた子ども達を見て心を痛め、救霊と重荷をもち、誰もが不可能だと留める中で道が開かれて行きました。家が与えられ、そこで子ども達が信仰を持ち、バプテスマを受け、今は成長して主に仕えるに至っています。哀歌2:19が読まれました。60年を迎え、なぜ、世界宣教なのでしょうか。それは、自己中心性と自我とを捨てて、主イエスを中心とした教会を建て上げて行くべき挑戦です。主の御命令を、主の御心を最優先にして歩むことへの絶えまない挑戦です。

201899() 第2主日

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」エペソ123

              教会の尊さ

名古屋聖書バプテスト教会をお造りくださった主イエス・キリストと父である神を賛美いたします。教会は、私に、悔い改めて生けるまことの神に立ち返る機会を与えてくださいました。教会は、私に聖書を教えて神の御心を知らしめました。教会は、私に真の礼拝を体験させてくださって、霊的礼拝の何かを示してくださいました。教会は、私に主イエス・キリストにお仕えする幸いな道を示してくださいました。教会は、私に福音を教え、福音によって生きることをすすめ、福音を伝える道を開きました。教会は、真の交わりを与えてくださいました。父と子と聖霊の交わりの中に入れられ、同じ聖徒たちとの幸いな交わりを与えてくださいました。教会は私の生活です。

測り知れない富を、キリストを通して与えられている教会は、キリストご自身が命を捨てて、買い取られた民によって成り立っています。その人々は、罪の赦しをいただいた幸いな民の集いです。教会の恵みの富、それは罪の赦しです。よって、ゆるしは教会の性質そのものであり特徴であるはずです。

福音を、そのままに生きる教会の姿の第1は、キリストこそが主と告白されていることです。信者はしもべであり、教会の頭は、いつも主イエスです。教会は小さくても、頭であるキリストは、大いなる主であり神なのです。

教会の使命は、今この時に生きる人々のところに、平和の福音をもって派遣することです。神の召命を受けて海外に派遣される。あるいは、国内に派遣される。各地に派遣される。これは宣教のための派遣であり、そこに主イエスの教会を建てあげる使命を託して遣わされます。

すべての聖徒たちもまた派遣されています。家庭に地域に、親族に学校にと、あらゆるところに置かれて、生活の中で主イエスを信じて生きるのです。時に、福音を語ることもありえましょう。時に、自分の家庭で集会を開くこともありましょう。そして、各自が自分の家で、祭壇を築くようにして、祈りを主にささげます。人々のために祭司として任務である執り成しをし続けます。

キリスト者にしかできない尊い奉仕のために、神は助け主である聖霊をお与えになりました。あらゆる奉仕に必要な能力は、このお方により備えられています。肉の力によらず、聖霊の導きによります。教会は聖霊の宮です。

 2025年12月21日(日) 第3主日 『主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。』 詩篇138篇8節  神の作品には、途中で放置されたままのものはありません。太陽、月、星、植物、生き物に至る...