2018年12月1日土曜日

2018年11月11日(日) 第2主日
十字架の言葉は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」Ⅰコリント1章18節19節
             十字架の福音 
 表題の聖書箇所は、使徒パウロが、ギリシャ地方で伝道してできた教会に当てて書いた手紙です。ギリシャは知の巨人を輩出した土壌です。最高の賢者との評を受けたソクラテスは答えました。「自分自身が無知であることを知っている人間は、自分自身が無知であることを知らない人間より賢い。」パウロはこう言います。「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」(1:20)ソクラテスは知恵者に順位をつけました。パウロは、神は、知者を愚かとされたと告げました。現代は、いずれを土台にしているのでしょうか。
 聖書では、「主を恐れることは、知恵の初め。これを行なう人はみな、良い明察を得る。」(詩篇110:10)創造主を崇め、同時に自分を神の前に低くすることから万事知恵は始まります。もし、それができるならば、神の創造作品である世界を通して、創造主である神を知ることができるはずです。
学者の知恵の言葉に対し、パウロは自らが語る神の知恵のことを「十字架のことば」と表現しました。人間の知恵と神の知恵のぶつかりあいです。圧倒的に軍配は神の知恵にあがりました。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」(1:19)
 パウロの語る福音とは、神の御子キリストが、十字架で死に、三日目に復活したのです。それは、本当の出来事であり、それを信じる者は誰でも救われるのです。自分の罪を認めない人には、キリストの十字架の死は蔑みでしかありません。神の力も奇跡も信じない人には、キリストの復活は興味を失わせるたわごとでしょう。しかし、自分の罪を知り、神に救いを願う者に、神の隠された知恵キリストなのです。キリストの十字架は、私のために身代わりです。キリストの甦りは私の罪の赦しの保障です。
 神の知恵は、人が凡そ思い浮かぶはずもない行為となって現れました。キリストによる救いは、人間の知恵の探求ではありません。信仰は、神の大いなる御業の上に土台を置いているのです。

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