2024年8月31日土曜日

 2024年8月11日(日)第2主日

良い行いと良いわざ

 良い行いとは、正しいことを行うことぐらいなら、誰でも知っています。律法を学んだ者なら特にそうです。その中でモーセの律法に従い安息日に労働をしないことは正しいことです。ところが、主イエスがその日に病をいやしたのを見て批判した者たちがいました。別の話では、強盗に襲われ瀕死のけが人を見ても素通りしたのはレビ人と祭司でした。神殿での神への奉仕を優先しました。律法の一つを守ることだけで正しいと思う誤りの事例です。もう一つの律法である隣人を愛することをしなかったのです。律法は、すべてを守ってこそ初めて正しいことを行ったことになります。律法の全部を知っていて全うできたお方がイエス・キリスト様です。人が、なすべき正しいことがあります。違反を認めて神と人とに対して、してしまったことを告白し、赦しをこうことです。放蕩息子の主イエスの例えは、その事例です。その点だけは、まじめな兄よりも神に対しては正しいことをしました。
 主イエス様にとって、良い行いとは律法を全うすることだけでなく、良いわざを行うことです。
「わたしは父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。」(ヨハネ 10:32)

 第1番目の良いわざは、「良いぶどう酒」の奇跡です。人は終わりに客が酔うのを見計らい悪いぶどう酒を出すものです。しかし、神の恵みは後の方が先のものにまさっています。預言者を送り続けた神は、ついに神の御子を世に送ってくださいました。福音を伝えた神は、ついに御国を完成されます。御父とはそのように恵みに恵みをお与えになるお方であることを示すこと、それが主イエスの業であり、正しいことをなすことです。

 第2に、主イエスがなさった良いわざとは、いのちの水を与えることです。ヤコブの井戸は先祖が残した貴重な良いものです。
「この水を飲む人は、また乾きます。」
そう言って主イエス様は、いつまでも決して渇くことのない、永遠のいのちへの湧き水を与える約束をなさいました。御父は求める者に、水にもまさる聖霊ご自身を、お与えになりました。

 第3に、主イエスがなさった良いわざとは、安息日に人を癒やすことです。38年病気の者に起きて床を取りて歩めと命じられ、その通りになりました。人は安息日だからと業を休みます。しかし、
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(ヨハネ 5:17)
いつも良いわざを、私たちのためにし続けてくださる天の御父に感謝します。

 第4に、主イエスの良いわざは、パンと魚を与えて養うことです。それが5000人であろうと4000人であろうとも、パンがたった5つしかなくても祝福されたパンによって満たされました。そのわざは、天の父は野の花を見事に装い、鳥に食物を与えるお方であり、私たちにも最良のものを与えるのが御父であることを教えています。
「あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」(マタイ 6:30)

 第5に、御父ご自身の側で主イエスになさった栄光の御業があります。十字架での死と葬りの後の復活です。神はイエスを死者の中から甦らせられました。こうして御父と御子が一体となって神の業がなされました。

 

 2024年7月14日(日) 第2主日

『イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいで拭きはじめられた。』(ヨハネ 13章4、5節)

弟子の足を洗ったイエス

 神が全能であると言葉で告白していたとしても、その全能の力について知っているのは、ほんのわずかです。それなのに全能の神とお呼びしているのは、神ご自身からの啓示に基づいています。天地万物創造主による宇宙と世界と全被造物は神の永遠の力や神性を示しています。そこには全能の神の知恵によって創造された世界が目の前に存在しています。

 「神が何でもできるというならば、どうしてしないのか?」そんな無理解から生じる愚問を発してしまいます。できるのにしないことも大きな能力です。主イエスは十字架上で、そこから降りることしません。御使いに命じて反対者を打つことできたのにしなかったのです。40日の断食明けの空腹時に、イエスの全能の力で石をパンに変えるようにと言った悪魔の誘惑を退けました。できることばかりに目を留めますが、しないことも能力です。

 神が人を罪から救う、つまり贖うのに、全能の力を封印された出来事、それが神の御子イエスの十字架上の死です。イエスの御父は、御子を助けることをしませんでした。
「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」
私たちを救うために弱さの極みである死をその身に受けられました。ここに神の知恵があります。救いを受けた私たちは、十字架によるイエスの死の中にこそ、神の偉大な救いの力を見出します。人が友のためにいのちを捨てることは愛です。しかし、罪びとのため、敵のために十字架の苦しみを自ら進んで受けるのは、神の御子イエスだけであり、神の愛によります。その愛をもって、イエスが弟子にされた業、それが足を洗うことです。これは本来、神が人にすべきことではなく、人が互いにするべきことです。しかも、能力によらず支配によらず、奉仕による業です。(ヨハネ 13章)
 「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」( ヨハネ13:15)
天の御父の元へ上げられ、栄光の御座に着かれたならば、もう弟子の足を洗うような立場ではなくなります。そこで、最後のイエスの愛の業として、奉仕をなさいました。イエスは、人の子として世にこられ、人に仕えるために歩まれたお方です。全能者がその全能性を肉体の中に封じられたと言えます。出来る方が、出来ない者のように生きられ、仕えられるべき方が、仕える者の姿を取って、世に来てくださったという奇跡、これも全能者の御力の現れです。

 2025年8月10日(日) 第 2主日 岩の上に建つ教会  詩篇34篇の前書きには、本文の「私はあらゆるときに主をほめたたえる」とある「あらゆるとき」の状況説明がされています。ダビデがサウル王に追われ、逃亡先で素性が知られてしまいます。その時に死に物狂いで別人を装い九死に一生を...