2021年11月21日(日) 第 2主日
『イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。」』(ルカ 6:20、21)
パンにまさるもの
何もかも捨ててイエスに従い始めた弟子たちでしたが、安定した生活基盤を捨てた時から、預言者エリヤにパンと肉とを備えた神への信頼が求められました。主イエスが言われるように、日ごとの糧を与えてくださいと祈る生活が始まりました。取税人マタイが回心した時には、大盤ふるまいの食事で満ち足りましたが、ある安息日には、空腹のゆえに麦畑の穂を、手でもんで、生麦を食べました。自分たちのパンを用意するのに精いっぱいなのに、主イエスは5000人以上の群衆の食事を備えるように促されるのです。食べることと生きること、生きることと信じることが直結しています。
貧しさのゆえに食物に欠くこと自体は悲しいことです。他人が、軽々に慰めたところで、それが何の助けになるでしょう。なのに、主イエスは
「貧しい人たちは幸いです。」
と言われました。理由は、やがて
「満ち足りるようになるからです。」
とあります。何よりの幸せの理由は、
「神の国はあなたがたのものだからです。」
との約束にあります。ある者は、その言葉に心を躍らせ神をほめたたえるでしょう。ある者は、福音に満足せず、パンのみを求めるでしょう。事実、5000人以上の人々は、イエスが祝福した 5つのパンと 2匹の魚で食べて満ち足りましたが、群衆の中にはパンだけを求めてイエスについてくるものがいました。神の国の相続権と一食のパンといずれが勝っているでしょうか。神の国を与えるとまで約束された神が、パンを与えないことがありましょうか。
何も持たない者を満ちたらせるとは、福音です。
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