2018年5月1日火曜日

2018年4月1日(日) 第1主日

『見ずに信じる者は幸いです。』(ヨハネ 20章29節)
 


主イエスは、十字架前夜に、弟子たちに、ご自分の死を告げられました。弟子が、平安を失うことがないようにと語られます。死は、父の家に戻ることであり、そこで、弟子のために先立って場所備える目的があること。備えができたら、再び来ることを約束されました。トマスは、それを聞いたときに、
 「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が私たちにわかりましょうか。」(ヨハネ14:5)
 トマスの「わからない」は、「受け入れられない」の別表現とも言えます。トマスは十字架のイエスの死の道も、復活される主の道をも受け入れませんでした。弟子たちが復活のイエスを証しても
 「決して信じません。」(ヨハネ20:25) と頑なになるばかりです。

  主の道があります。かつて天よりくだり、人の子となるために下られた道です。まずナザレで神と両親とに仕え、人の子としての道を歩まれました。そして、キリストとして公にご自分を示す伝道の道を歩まれました。最後にエルサレムで捕らわれて、十字架刑に処せられる苦しみの道がありました。ビア・ドロローサ、悲しみの道を、十字架を背負いながら歩まれました。最期の息を引き取る場所は木の上でした。すべてが主の道です。

 
 主は墓に葬られて後、三日目、つまり、日曜日の朝早くに甦られました。エマオに下る道すがらふたりの弟子と共にイエスは歩み、ご自分のことを示されました。その後に他の弟子たちにご自分を表すこと度です。ガリラヤに戻り、そこが復活のイエスとの出会いの場でした。
 
 イエスの12弟子のひとりとして名を連ねたトマス。
 「私たちも行って主といっしょに死のうではないか。」(ヨハネ11:16) 時に死の覚悟を口にできる強い人でした。ゆえに、合点が行かない場合には、
 「わかりません。」(ヨハネ14:5) 「決して信じません。」(ヨハネ20:25) と言い切ります。主の歩まれた道があります。そして、今も、主の道があるはずです。

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