2022年2月8日火曜日

 2022年1月2日(日) 第1主日

『あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義にさだめられません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。』(ルカ 6:36、37)

神にならう者

「ですから愛されている子どもらしく、神にならう者になりなさい。」(エペソ 5:1)と勧められています。実に高尚にして及びもつかぬ目当てに思えます。肉における親の徳にさえ及ばない者が、どうして天の神に似ることなどできえましょうか。なのに、はばかることなく勧められています。「神に愛されている子どもらしく」というのが勧めの動機です。

 キリスト者が神の子だからと言って、能力や容姿が神に似ているわけではありません。ならうべきは、神の聖さであり、神の愛であると聖書には教えられています。キリスト者は、もはや、この世にならう者ではありません。(ローマ 12:2)ならうべきは神のみです。

 模範は主イエスです。神の御子イエスは、天にます私たちの父である神と一体のお方です。御父を知り尽くしておられるイエスの生涯は、御父の栄光の表れそのものでした。イエスご自身も断定しておられます。
 「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(ヨハネ 14:9)

 主イエスのいつくしみと憐れみを受けた者ならば、それにならい、人にも同じくするはずです。罪の赦しを受けた者ならば、それにならい人の罪を同じようにすることが求められています。そうしないことは、新たな罪となることでしょう。(マタイ 18:35)

 導き出される事は、キリスト者が、神に似ているとすれば、他者に対して、あわれみ深いことであり、他人の罪をさばかないことであると言えます。

2021年12月27日月曜日

2021年12月12日(日) 第2主日

『あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。』ローマ 12章18節

イエスが来られた

 イエス様が弟子たちに教えたことは、「ただ、自分の敵を愛しなさい。」です。勧めの根底に、御父である神が世を愛されていることがあります。そして、神の御子イエスもまた、そのごとくになさいました。弟子にも、同じくするように教えられました。地上にはない、天国に由来する教えです。神はたとい敵対する人に対しても赦しをもって救おうとなさいます。

 神に敵対する者と言えば、聖書世界では、「悪魔とかサタンとか呼ばれていて、全世界を惑わす、あの古い蛇」です。(ヨハネ黙示 12:9) 神の創造世界を壊すため、最初の人アダムとエバとを誘惑したのは蛇です。神はこう告げられました。「おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとにかみつく。」(創世記 3:15)サタンと呼ばれる通りに敵対する者です。女の子孫として現れる方、主イエスこそが「彼」と呼ばれる御方で、サタンを砕くのです。

 主イエスは、聖霊によって処女マリヤのうちにみごもり、人として世に来られた神の御子です。「ごらんなさい、あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」(ルカ 1:31)これぞクリスマスです。

 イエスが世に来たことで、「神の子が来たのは、悪魔の業を打ち壊すためためです。」( 1 ヨハネ 3:9)とある通りになりました。しかし、敵対する者、悪魔もまた激しく挑み、ついには神の御子イエスを殺したのです。しかし、神はこのイエスを甦らせられました。神の勝利です。

 最期には主イエスが悪魔を完全に滅ぼします。「悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた、」(ヨハネ黙示録 20:10)永遠の裁きです。

2021年11月29日月曜日

 2021年11月28日(日) 第 4主日
『人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。』(ルカ 6章 31節)

黄金律

 「自分にして欲しくないことは、人にもそのようにしてはならない。」というのと「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。」とでは石と黄金ほどにその言葉の価値が違います。

 盗んではならない、殺してはならない、隣人のものを欲しがってはならないという律法は、隣人を損なうことをしないための禁止律法です。モラルの低下や、迷惑行為などは社会全体の質を低下させる原因になります。人にしてはならない事から始まります。

 それに対して愛の律法は、隣人のために益となることを進んで行うことです。「しないこと」よりも「すること」にかかってきます。主イエスは「自分にしてもらいたいと望む」ことをせよと言われました。

 私がしてもらいたいと願うことと、隣人の願いとが一致しているとは限りません。おせっかいや善意の押し売りというのもあります。自分を基準に、良いことをして本当に大丈夫なのでしょうか。

 主イエスは、ご自身の願い通りのことを人にもなさいました。かつ、真に隣人の益となる事のみを実行されました。自分にしてもらいたいことをせよとは、神のみこころと合致する願いごと以外には存在しません。

 願いはあっても、あるいは、してあげたいと思っても、それができないもどかしさをいつも私たちは抱えています。それでも、わかっていることは、人が求めているもの、あるいはしてもらって有難かったこと、それは「愛」です。親族、友人、教え導いてくれた人々。そうした人々から受けた恩恵があって今の自分があります。自分が受けてきた数々のことが思い出されてきます。「ならば、してもらったことを、今度は隣人にもすべきではないのか」
主もまた言われました。
「人にもその通りにしなさい」

 何よりも、天の御父が、私にしてくださったことは特別です。御父である神は、私の罪のゆるしのために御子イエスを、身代わりとして罰せられました。そして、今も、私の罪を赦してくださいと祈るたびに、赦し続けてくださいます。敵であった私たちでさえも愛してくださいました。ならば、「人にもそのようにしなさい」
 まことに説得力のあるお言葉です。

 2021年11月21日(日) 第 2主日
『イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。」』(ルカ 6:20、21)

パンにまさるもの

 何もかも捨ててイエスに従い始めた弟子たちでしたが、安定した生活基盤を捨てた時から、預言者エリヤにパンと肉とを備えた神への信頼が求められました。主イエスが言われるように、日ごとの糧を与えてくださいと祈る生活が始まりました。取税人マタイが回心した時には、大盤ふるまいの食事で満ち足りましたが、ある安息日には、空腹のゆえに麦畑の穂を、手でもんで、生麦を食べました。自分たちのパンを用意するのに精いっぱいなのに、主イエスは5000人以上の群衆の食事を備えるように促されるのです。食べることと生きること、生きることと信じることが直結しています。

 貧しさのゆえに食物に欠くこと自体は悲しいことです。他人が、軽々に慰めたところで、それが何の助けになるでしょう。なのに、主イエスは
「貧しい人たちは幸いです。」
と言われました。理由は、やがて
「満ち足りるようになるからです。」
とあります。何よりの幸せの理由は、
「神の国はあなたがたのものだからです。」
との約束にあります。ある者は、その言葉に心を躍らせ神をほめたたえるでしょう。ある者は、福音に満足せず、パンのみを求めるでしょう。事実、5000人以上の人々は、イエスが祝福した 5つのパンと 2匹の魚で食べて満ち足りましたが、群衆の中にはパンだけを求めてイエスについてくるものがいました。神の国の相続権と一食のパンといずれが勝っているでしょうか。神の国を与えるとまで約束された神が、パンを与えないことがありましょうか。
 何も持たない者を満ちたらせるとは、福音です。

2021年10月31日日曜日

 2021年10月10日(日) 第2主日

『ところが、律法学者たちはあれこれ考え始めた。「神への冒涜を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」』(ルカ 5章 21節)

赦された者の歩み

 鳥が放たれた
 全身ひどい皮膚病のためツァラート(レビ記 13章)の宣告を受けていた人が、イエスのもとにきて、ひれ伏して願いました。主イエスが、「わたしの心だきよくなれ」と言うと、すぐに、皮膚から病が消えました。癒やされた人は、主イエスの命令に従い、祭司のところで 1週間かけて、捧げものなどをして後、最後に鳥が 1羽放たれて、解放宣言がなされました。癒やしを経て、神の前にきよめられた人となりました。

 屋根がはがされた
 続いて、主イエスのもとに寝床ごと連れてこられたのは、身体麻痺の人です。伴だって来た男たち 4人の行動は奇異に思えます。家の屋根をはいで、イエスの頭上から病の人をつりおろしました。「人はうわべを見るが主は心を見る。」(Ⅰサムエル 16:7)とあります。屋根をはいでつりおろす男たちの行動の内にある、「彼らの信仰を」見て下さったのが主イエスです。

 罪がゆるされた
 他方、身体麻痺の人については、深刻な罪の問題を抱えていることを主イエスは見抜かれました。4人の男たちではどうにもならなかった問題でした。イエスはご自分の主権を用いて、「あなたの罪は赦されました。」と告げます。まさに、イエスのお心ひとつで、この人もまた、きよめていただいたのです。

 寝床がたたまれた
 罪の赦しわ得た人に、イエスは命じられます。「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われました。信仰者としての第 1歩が始まりました。すべての罪の重荷を取り払われ、解放された身で主イエスに従い続けます。

 血が流された
 キリストは罪からの救い主です。そのために自ら犠牲となって十字架で命を捧げてくださいました。流された血は、すべての罪と汚れからきよめるのに十分です。そのことを信じた者が、きよめられますように。また、信仰に基づいた行動をした人にならうことができますように。 


2021年10月20日水曜日

 2021年9月5日(日) 第1主日

『主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。』(ルカの福音書 4章18節)

時が満ちて

 バプテスマと荒野の試練を経て、いよいよ主イエスのお働きの開始です。場所は、ご自分の育たれたナザレの会堂です。聖書の巻物がイエスの手に渡されイザヤ 61章が朗読された後、こう宣言なさいました。
 「今日、この聖書のことばが実現しました。」(ルカ 4:21)
神の恵みの始まりです。

 「主の恵みの年」とは 50年ごとの解放と回復の喜びの年です。牡羊の角(ヨベル)のラッパの音で始まります。恵みの年の到来を告げ知らすイザヤの預言したキリストとは、主イエスのことです。ルカの福音書は、主イエスによってもたらされた恵みの年の解放と喜びが記されています。

 ヨベルの年は貧しい者にとっての待望の年でした。負債がリセットされ、手放した土地が買い戻されるのです。ルカの福音書は貧しい者への福音です。
 ヨベルの年の大贖罪日には、民の罪を背負ったやぎが解き放たれました。ルカの福音書は、罪の赦しの福音が強調されています。(ルカ 24:47)
 ヨベルの年には捕らわれ人が恩赦を受けて解放されました。主イエスは、ゲラサの墓に住む人の所に行き幾千の悪霊どもから、その人を解放されました。「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ 4:34)主イエスこそが、私たちの主です。
 ヨベルは大安息年でした。あらゆる労苦から解かれる日です。主イエスが来て、目の見えない人の目を開きました。やがて、永遠の安息が到来します。7年を 7度繰りかえしたときに「時が満ちて」ヨベルが始まりました。時が満ちて、主イエスが来られる時に安息と解放が実現します。

34

2021年9月15日水曜日

 2021年8月29日(日) 第5主日

するとイエスは答えられた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」
ルカの福音書 4章12節

神の守りを信じて

 ■神の守りを歌う詩篇 91篇は、「わざわいは、あなたに降りかからず 疫病も、あなたの天幕に近づかない。」(10節)詩篇 122篇は「主は、すべての災いからあなたを守り あなたのたましいを守られる。主はあなたを行くにも帰るにも今よりとこしえまでも守られる。」神の守りの詩です。

 ■バビロン捕囚民となったユダヤ人の若者 3人は、金の像を拝むことを拒み、火の燃える炉の中に投げ込まれました。彼らの信仰は、「私たちが仕える神は、火の燃える救い出すことができます。(ダニエル書 3:17~27)完全な守りにより害を受けませんでした。

 ■一方、災いに遭った聖徒のひとりは義人ヨブです。家のしもべたちは、略奪にあい突然いのちを落としました。息子娘たちは台風で家屋が倒壊し犠牲となりました。更に試みは続き、「サタンは…ヨブを足の裏から頂まで悪性の腫物で打った。」ヨブの信仰といのちは奪われませんでした。不幸な目にあいましたが、試練を乗り越え、神からの命の冠を受け取りました。如何なるときにも神とともに歩み続けました。

 ■悪魔は聖書の一部分を逆手にとって攻撃してきます。神の子なら「ここから下に身を投げなさい。」聖書の言葉の確かさを実験して証明せよとの挑戦です。聖書には「あなたの神である主をこころみてはならない。」とあります。大切な事は、神の守りを信頼して生きることです。

 ■主イエスの公生涯の 3年間は如何なる災いからも完全に守られ、不安が見いだされません。ところが十字架への道では、神はイエスを不法な者どもの手に引き渡されたので、苦難と辱めを受けられました。ついに十字架上で息絶えられました。神はイエスを助けなかったのでしょうか。いいえ、三日目に神はイエスを死者の中から甦らせられました。主イエスは高くあげられて、神の右の座にお着きになられました。

 ■「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、命の冠を受けるからです。」ヤコブの手紙 1章 12節

 2025年12月21日(日) 第3主日 『主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。』 詩篇138篇8節  神の作品には、途中で放置されたままのものはありません。太陽、月、星、植物、生き物に至る...