2018年7月7日土曜日

2018年6月24日(日) 第4主日
 

『この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。
 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」』(マタイ417)       

なぜ世界に福音を
 
 ガリラヤの山で、復活されたイエスは、弟子たちに次の様に命じられました。
「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ615

 なぜ、全世界宣教なのでしょうか。

 1.神が万人を創造されたからです。
 万物の創造の主、唯一の神は、私たちを造り、これを養い、育てておられます。すべての生き物、すべての花々、そして私たち、これらは神の作品です。
 この方に拠らない者は、一つもありません。


 2.すべての人がアダムの子孫ゆえに、罪の性質を万人が受け継いでいます。
  「こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。」(ローマ518)

3.イエス・キリストの贖いの効力は全世界のすべての人に及ぶからです。
 「この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」(Ⅰヨハネ22)

4.神が今や、すべての人に悔い改めを命じておられるからです。
 「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。」(使徒173031)

 5.救われて天国の民に加わるのは、全世界、全国民の中からです。
 「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」(黙示録79)

イスラエルの12部族から選ばれた民と、全世界の国民の中から救われた聖徒たちがイエス・キリストにあって一つとされるのです。これが、天国の光景であり、神の御心だからです。
 皆が一つとなってこう讃美します。
「救いは、御座に有り、私たちの神にあり、小羊にある」(7:10)
 これが神の御心です。

 

 


 
2018年6月10日() 第2主日

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。』(ヨハネ6:31、32)    
               
上よりのマナ

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。」(ヤコブ1:17) 
「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(ヤコブ3:17)
「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。」(コロサイ3:)
 上記の聖句から「上」とは、光を造られた父である神とそのご支配されている神の国をさしています。そこには、神の御座があり、御子イエスがおられます。あらゆる光の根源である神の栄光輝く世界です。
「下」とは、天に対して地をさしています。罪の性質が支配しています。悪霊どもが働くやみが覆っています。妬み、敵対心、乱れ、邪悪な行いが蔓延しています。この世を愛するようにと誘惑が満ちています。
  ギャンブル依存症、薬物依存症、アルコール依存症に、これにスマホ依存症が加わります。下が与える物は、決して人を引き上げはしません。
 神がお与えになる者は、地から出でたものではなく、天から授かったものです。ゆえに、金銭では、決してはかれない永遠の価値があります。
 荒野で神が「天の穀物」(詩篇78:24)と呼ばれるマナをお与えになりました。今は、全世界のすべての人のために、天よりの贈り物を神がくださいました。ひとり子の神が人となり、十字架にかかり復活なさったイエス・キリストです。
  これこそ、まことのいのちのパンです。
 
 
 

 

2018年6月2日土曜日


2018年5月20(日)第3主日

イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
(ヨハネ章5~6節)

                     しるしか満腹か

イエスが、旅の疲れをいやすため、サマリヤの井戸のかたわらに腰をおろしておられました。そこに水を汲みに来た女性に「わたしに水を飲ませてください。」と言われました。飲み水のことからイエスは始めて、とこしへに渇くことのない水、「永遠のいのちへの水」のことに話は進み、ついには、サマリヤの多くの人がイエスをキリストと知るにいたります。

 ヨハネ6章では、今度は、パンのことから始まり、群衆はイエスが増やしたパンにあずかります。しかし、なくなるパンを求めて押し寄せる人々に、いつまでも保ち、永遠のいのちの食物を求めることを語ります。神が今、与えているパン(天よりのマナ)、それはイエスご自身であると宣告されます。「わたしがいのちのパンです。」パンは麦の粉からできます。イエスが言われたいのちはパンは「わたしの肉,わたしの血」によります。そこまで説教を聞いた弟子たちの多くは、聴くに堪えがたいとして、離れて行きました。

 少年が持参していたつのパン、匹の魚、イエスは、確かに5000人以上の群衆に分け与え、満腹にさせ、なおも12のかごに余りました。それは、単なる窮乏者への救済措置ではありません。「しるし」なのです。天の父が荒野の民になさったマナと同じで、神が目の前でしておられる御業です。さらに、その意味合いは深く、イエスが自分のいのちを多くの人のために文字通り、割いて分かち与えることを指しています。パンは一時のいのちの糧です。イエスの与えるいのちは、永遠のいのちです。そのようにパンのしるしを見た群衆は、イエスのところに来るはずでした。

 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、無理やりにつれて行こうとしているのを知って・・。」
 パンと水を与えるイエス価値は、自分の都合の良い供給者です。永遠の命よりも、今のいのち。天の御国よりも、今がすべてになってしまっています

2018年5月6日(日) 第1主日

  『あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。』
(ヨハネ5:39、40)

 
父である神と聖書が証言するお方

 今週の10日(木)はイエスの昇天日になります。4月1日イースターから50日目になります。イエスは十字架にかけられ、命を捨て、墓に埋葬されて3日目の日曜日朝早くに復活されました。それから多くの人々にご自分を示されました。3度も弟子たちはイエスとまみえることができました。こうして弟子たちは復活の証人となりました。天の父がイエスを死者の中から甦らせて、公に神の御子であることを示されました。復活の証人とは、単にイエスが復活した出来事に遭遇しただけではありません。そこに、父である神の大能の力を見出し、確かに神の御子であることを理解した者のことです。復活は栄光の姿への甦りであるであると同時に、神の偉大な業であり、神のイエスについての確かな証言なのです。これにまさる神による証明はありません。

 イエスは言われます。「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。」(5:31)イエスが神の御子であり、神から遣わされたまことの救い主であることの証言者は、イエスの父である神です。「わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。」(5:37) お父さんが息子であることをあかししておられます。イエスのなさる数々の御業は、神の業と完全に合致しています。万物に命を与える神は、人にもいのちを与えるお方です。イエスもまた死人をいかし、与えようとするものにはいのちをお与えになりました。死んだラザロは甦りました。それどころか、「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出てくる時がきます。」

 
イエスを証言するものが他にもあります。旧約聖書です。「あなたがたは聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(5:39) 聖書は私たちをイエスのもとへと導きます。聖書を読みながらも、イエスの所へと行こうとしない者へのイエスの御言葉はこうです。「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(5:40)旧約聖書中で名だたる神の器と言えばモーセです。そのモーセの書もまた、「モーセが書いたのはわたしのことだからです。」(5:46)聖書それはイエスについてのもっとも尊い証言の書なのです。いのちの君イエスのところへ行きましょう。

2018年5月1日火曜日

2018年4月22日(日) 第4主日

『イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。』(ヨハネ 5章5節~9節)
 
わたしの父は

ベテスダの池の周りに廊下があり、そこは、大勢の病人、目の見えない人、足が麻痺した人、衰弱した人などが集まっていました。エルサレムに行かれたイエスは、あえてそこへ足を運ばれましたが、誰もキリストだとは知りません。イエスに願い求める人もいません。皆の思いは、池の水面がかき回されて動く時に、水の中に入ることで癒されたいのです。

イエスは一人の病人に声をかけられました。38年もの間病気で床に着いている人です。その人は、イエスのお言葉通りに「起きて、床をとり上げて歩き出しました。」
 本人の信仰のゆえに癒されたのではありません。後程、それがイエスであることを知ったと書かれています。イエスのみ言葉に従った結果でもありません。むしろ、癒された業が先行し、本人には、その事実を自ら確認するようにと「起きて、床を取りあげて歩きなさい。」との意味ともとれます。治ったのだから・・・。

イエスの御業が示していることが説明されています。
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネ517) 
 父である神との共同のお働きだと説明されています。それは、休みのない救いの業です。それは、神とイエスの一方的な恵みの御業です。
 「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」(ヨハネ521) 大勢の病人の中から、選ばれたのは38年の間、病気を背負って歩んだ人でした。
2018年4月1日(日) 第1主日

『見ずに信じる者は幸いです。』(ヨハネ 20章29節)
 


主イエスは、十字架前夜に、弟子たちに、ご自分の死を告げられました。弟子が、平安を失うことがないようにと語られます。死は、父の家に戻ることであり、そこで、弟子のために先立って場所備える目的があること。備えができたら、再び来ることを約束されました。トマスは、それを聞いたときに、
 「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が私たちにわかりましょうか。」(ヨハネ14:5)
 トマスの「わからない」は、「受け入れられない」の別表現とも言えます。トマスは十字架のイエスの死の道も、復活される主の道をも受け入れませんでした。弟子たちが復活のイエスを証しても
 「決して信じません。」(ヨハネ20:25) と頑なになるばかりです。

  主の道があります。かつて天よりくだり、人の子となるために下られた道です。まずナザレで神と両親とに仕え、人の子としての道を歩まれました。そして、キリストとして公にご自分を示す伝道の道を歩まれました。最後にエルサレムで捕らわれて、十字架刑に処せられる苦しみの道がありました。ビア・ドロローサ、悲しみの道を、十字架を背負いながら歩まれました。最期の息を引き取る場所は木の上でした。すべてが主の道です。

 
 主は墓に葬られて後、三日目、つまり、日曜日の朝早くに甦られました。エマオに下る道すがらふたりの弟子と共にイエスは歩み、ご自分のことを示されました。その後に他の弟子たちにご自分を表すこと度です。ガリラヤに戻り、そこが復活のイエスとの出会いの場でした。
 
 イエスの12弟子のひとりとして名を連ねたトマス。
 「私たちも行って主といっしょに死のうではないか。」(ヨハネ11:16) 時に死の覚悟を口にできる強い人でした。ゆえに、合点が行かない場合には、
 「わかりません。」(ヨハネ14:5) 「決して信じません。」(ヨハネ20:25) と言い切ります。主の歩まれた道があります。そして、今も、主の道があるはずです。

2018年4月20日金曜日

2018年3月25日(日) 第4主日

『父よ。時が来ました。』(ヨハネ 17章1節)   

キリスト・イエスをもといとして
 今週は受難週です。教会歴では、今日の主の日は、棕櫚(しゅろ)の主日と呼び、主イエスがエルサレムにロバの子に乗って入城をされました。
 29日(木)の夜に弟子の足をイエスが洗い、食卓にともにつき、最後の晩餐をなさいます。過ぎ越しの祭りです。パンを裂き、ぶどう酒を与えて、あらかじめ主の死とその意味とを告げられます。その夜に園で捕えられました。
 30日(金)は、エルサレムの街なかを、自ら十字架を背負い、処刑場であるゴルゴタへと向かわれました。6時間の間、十字架上で苦しみの杯を飲みほし、ついに午後3時ごろ、父である神に霊をお渡しになりました。聖なる安息日に突入する日没までに、いそぎアリマタヤのヨセフが、自分の新しい墓に埋葬しました。主は葬りにおいては、富める者と等しくされました。番兵どもは墓を見張り続けました。理由は、イエスの遺体を弟子がうばいとって、復活したなどと言いふらすような事がないためでもありました。
 イエスの葬りの時から3日目の朝早くに、主イエスは甦られました。御使いの宣告は
 「ここにはおられません。よみがえられたのです。」(ルカ24:6)
 今年は4月1日(日)の朝がその日となります。
 その後、復活の主イエスは、弟子に三度ご自身をあらわされ、他にも500人以上の人々も復活のイエスと出会いました。
 40日間が過ぎた5月10日(木)にオリーブ山から弟子たちが見ているまに、天に昇って行かれました。御使い再臨の約束を告げました。
 10日後、5月20日(第3主日)、主の復活日から5旬目に、約束されていた助け主である聖霊が弟子たちの集まりの中に下られました。聖霊の能力を得てイエスの弟子たちは地の果てにまで、福音を宣べ伝え続けました。
 「もし、キリストがよみがえられなかったのなら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(1コリント15:17)

 2025年12月21日(日) 第3主日 『主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。』 詩篇138篇8節  神の作品には、途中で放置されたままのものはありません。太陽、月、星、植物、生き物に至る...