2024年10月13日(日)第 2主日
神の国に入るためには
大切なものは神様が与えてくださいます。
「だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」
2000年前に主イエス様は、神の国とその義を探し求め、神の国の扉をたたく者には、開かれるという約束をされました。この約束は世界中のあらゆる人々に対して告げられたもので今も有効です。
国には領土、国民、主権が存在し、法律に基づく治世があります。国境があり、侵略すれば争いになります。同じ国民でも部族民族ごとに言語があり、文化があり、争いごとがあります。主権が独裁主義者の手中にある国民は蹂躙されています。世界中のどの国も入国制限を設けていて、滞在期間も限定していて守勢が徹底されていて相互緊張感が発生します。しかし、神の国は神の義にもとづく支配によって平和がもたらされます。キリストを通しての和解によってもたらされた神との平和と兄弟姉妹との主にある平和です。
ニコデモと主イエス様との対話の主題は神の国に入ることです。
「まことにまことにあなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」
アブラハムの血筋によることがイスラエルの国民であり、引いては神の国に入れると考えたニコデモです。主イエス様は神の国の国民になるには御霊による新生が必要であるとニコデモに告げられました。肉と霊、地上と天国、人間の支配と神の支配、やがては消失する国家と永遠の御国とでは本質的に異なります。そこに入るには、血筋によらず、御霊による新生によって国民となります。これが神の国です。
「私たちの国籍は天にある」使徒パウロが言った言葉です。ローマ市民権もベニヤミンの血筋もパリサイ派ガマリエル門下である名声も神の国の国籍の前には無きに等しいものです。ヨハネ黙示録7章には、神の国の光景が記されています。
「その後、私は見た。すると身よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数え切れないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。」(黙示録7:9)
「だれでも」叩く者には開かれる御国の約束の通りに、数えることもできない世界中の人々がそこに入っています。私たちもその中に加えられて天の御国の民となることができます。
関係性が近くなると争いが生じます。互いに敵意を内在化しながら関わっているのが現実です。私たちの祈りは、次の通りです。
「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」(マタイ6:10)