2018年7月8日(日) 第2主日
『わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちなのです。』
ヨハネ6章63節
なぜ躓くのか
イエスがカペナウムの会堂で教えを語った時、聞いた多くの弟子の反応は、「これはひどいことばだ。そんなことを誰が聞いておられよう。」(ヨハネ6:60) この時の説教により、「弟子たちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」(ヨハネ6:66) 12弟子にも問われます。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」(ヨハネ6:67)
聞く側をためし、ゆさぶり、ついに去って行くほどの内容とはなんでしょうか。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちをもっています。」(ヨハネ6:54) 比喩の場合なら、「私の爪の垢を煎じてのめ」程度です。 比喩でないことは、「わたしの肉、わたしの血」と3度も、「わたし」が強調されています。ご自分の御体を指して言っておられたことは明らかです。
躓きを引き起こした背景に、モーセの律法との関連があります。
「どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ」(レビ17:10) モーセ以後、イエスの弟子たちに至るまで守り通した律法です。(使徒15:29)それを無視するかのような意味は何をさしているのでしょう。
第1に、イエスの言葉を指します。そこにいる弟子たちに、その時、その場でまことの食物、まことの飲み物を与えていたのです。それがイエスの説教でありその御言葉です。イエスの側から言えば、自分の血肉そのものを差し出しているのです。いのちを差し出して、命のことばを伝えておられるのです。まことのいのちを分かち与える説教、これがイエス・キリストです。ペテロには、わかっていました。「あなたは永遠のいのちの言葉をもっておられます。」(ヨハネ6:68)
神の言葉、聖書は聖霊により命を与えるお言葉です。
第2に、文字通り、イエスの血と体をさしています。なぜ、モーセは血を食することを禁じたのか。動物の血が贖いの犠牲の役割としてある時から聖別されました。来るべきまことの血のささげものを指示していました。ついに時至り、十字架上でイエスはご自分の御体を捧げ、その血を注がれました。これこそ、完全な罪の贖いの犠牲です。私たちを完全に救う捧げものです。それを受け取る者には、誰にでも永遠のいのちが与えられます。
0 件のコメント:
コメントを投稿