2021年7月26日月曜日

 2021年7月18日(日) 第3主日

『あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。』

テモテ 第2の手紙 1章13、14節

健全なことば

「英語聖書の父」と称されたウィリアム・ティンダルは、一般の者が英訳聖書をもつことが禁じられていた時代に、原語から翻訳した新約聖書を完成させました。そのことで1536年に処刑されました。ティンダルの残した言葉に、「福音はギリシャ語で、良い、楽しい、うれしい、喜ばしい知らせを意味している。それは人の心を楽しませ、人を歌わせ、踊らせ、喜びで小躍りさせる。」聖書は人の魂を生き返らせます。

 いのちのことば聖書

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(Ⅱテモテ 3:16)
 霊感と言えば、神が、最初の人にいのちを与える箇所とつながります。
「大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きる者となった。」(創世記 2:7)
 また、主イエスは「ラザロよ、出て来なさい。」(ヨハネ 11:43)と死んだラザロに大声で命じ、その通りに生き返りました。神のいのちが聖書には吹きかけられています。

 宣べ伝える働き

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、勧めるなさい。」(Ⅱテモテ 4:2)
宣べ伝えることは、聖書を教えることです。教え方は、責め、戒め、勧めることです。変化につながるには忍耐が必要です。聖書は私たちを慰め、励ます神のお言葉でもあります。責めるよりも、祈り、共に労苦を担うことにより神のことばが届けられます。み言葉は剣にもなるので注意を要します。

 健全な言葉を模範にして

「私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。」(Ⅱテモテ 1:13)
パウロの模範は主イエスです。主イエスの愛と信仰とにより、迫害者サウロは救われて、健全なものになれたのです。聖書は、私たちに主イエスを教えています。
「聖書は、わたしについて証ししているものです。」(ヨハネ 5:39)

2021年7月1日木曜日

 2021年6月20日(日)第3主日

「ですから、私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」

テモテ第2の手紙 2章1節
神からの励まし

「強くあれ、雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。」(ヨシュア記 1:9)
神が、モーセの従者ヨシュアに、直接告げられた励ましの言葉です。モーセの死後、ヨシュアが民の指導者、軍の長、主なる神の代行者として、任を託すに当たり、確かな約束と保証を伴う命令を与えられました。
 
 第1の「強くあれ、雄々しくあれ。」(ヨシュア記 1:6)
神からの心強い約束は「ともにいる・見放さず・見捨てない。」です。ヨシュアは40年ほど前に、約束の地の偵察メンバーのひとりとして、40日間偵察をしました。(民数記 13:16、14:6、7)他の10人は、背の高いアナク人を見て恐れて悪い報告をしました。カレブとヨシュアは自分の衣を引き裂き、「地は、すばらしく良い地だった。」(民数記 14:7)と叫びました。
悪い情報に付和雷同した民のために荒野の試練が追加されました。あれから40年、ついにヨルダン川を越えて約束の地に入る時が来ました。同じ轍を踏んではなりません。今度こそ「父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。」(ヨシュア記 1:6)
神はご自分で誓ったことを果たすために、ヨシュアと共にいて事を成し遂げてくださいます。
 
 第2の「ただ強くあれ、雄々しくあれ。」(ヨシュア記 1:7)
約束の地に入ることがゴールではなく、目的は「わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。」(ヨシュア記 1:7)そうすれば、「あなたは、自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。」(ヨシュア 1:8)祝福の約束を伴う大切な目的です。ヨシュアが初志貫徹した証は、年を重ねて老人となった時の全イスラエルに向けての説教で明らかです。「モーセの律法の書に記されていることを断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れず」(ヨシュア記 23:6)右にも左にもそれないためには、勇気が必要です。恐れると、後退し、道をそれてしまうからです。

 第3の「強くあれ、雄々しくあれ。」(ヨシュア記 1:9)
十字架についた犯罪人の一人が、もう一人の犯罪人をたしなめて言いました。「おまえは神を恐れないのか。」(ルカ 23:40)最大の罪人でも最期にはパラダイスに入ることができたのは、神を恐れ、イエスに救いを嘆願したからです。
 聖歌 591番「『恐れなく近よれ』と主は語りたもう」

2021年6月3日木曜日

 2021年5月9日(日) 第2主日

「父と母とを敬え」

 聖書を開くと、昔の人々の父母に関する教えを見出します。最初の人アダムには両親がいません。創造主である神が育ての親です。御父は一つの戒めを授けました。アダムは、それを守ることで敬愛を示しました。罪の起源、原罪は、父の戒めをやぶり善悪を知る木の実を食べたことです。以後、その子どもたちの多くは、両親とは異なる神なき人生を歩んで行きました。

 神がモーセを通して授けた律法には主の道が示されています。
「あなたの父と母を敬え。」(出エジプト 20:12)
とあり、守る者への長命が約束されています。他方
「自分の父と母をののしる者は、必ず殺されなければならない。」(出エジプト 21:17)
厳しい厳罰が伴い敬愛の重要性を教えています。

 神の教えは、まず両親から子どもに伝えられていました。
「わが子よ、父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない。」(箴言 1:8)
時には叱責も惜しみません。
「父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。」(箴言 3:12)
父が子を愛する証は、子に教えを授けることです。アブラハム、イサク、ヤコブと代々続きました。ついに御子イエスが来て、天の父を証してくださいました。御子イエスは言われます。
「私と父とは一体です。」(ヨハネ10:30)

 両親のもうひとつの役割は、必要を満たし育むことです。これも愛の業です。愛なる神は、私たちの必要を知って与えてくださいます。(マタイ 6:32)人が失ってしまった両親の役割を神のうちに完全な形で見出します。御子は父である神を愛され、神もまた御ひとり子イエスを愛されました。ところが、その愛が私たち罪びとに向かって注がれたのです。

2021年4月29日木曜日

 2021年4月25日(日) 第4主日

『しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人はひとりもありません。失われるのは船だけです。』使徒27章21、22節

希望のメッセージ

 使徒パウロが書いたコリント第2の手紙において、キリストのゆえに受けた労苦の数々を述べています。その中で海難事故のことにも触れています。
「難船したことが3度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし…海上の難にあい、労し苦しみ」(Ⅰコリント11:25、26)
 その手紙を書いてから4~5年後の紀元59年初秋、カイザリアの港から船で囚人としてローマへと向かいます。クレタ島の「良い港」で冬を過ごすべきところを、パウロの進言を無視して出帆してしまいました。おりしもユーラクロン(強烈な局地風)に襲われて、最悪の海難事故に見舞われました。
 共に乗船していたルカが使徒の働き27章において詳細に記しています。
「太陽も星も見えない日が何日も続き、暴風が激しく吹き荒れたので、私たちが助かる望みも今や完全にたたれようとしていた。長い間、だれも食べていなかった。」その時です。パウロが希望のメッセージを語りました。
 「元気を出しなさい。」「私は神を信じています。」「私に語られたことはその通りになるのです。」「私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」船のキャプテンは、船長でも、ローマ百人隊長でもなくパウロであり、パウロが仕えている主イエス様です。パウロが死ねばすべての人も死に、パウロが生きればすべての人も生きるのです。「見なさい。神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます。」神の御使いが来てそう伝えました。14日目の夜になり、陸地に近づき始めました。
 だが、助かるためにはなおも乗り越えるべき危険がいくつもありました。
第1の危機は、水夫たちが自分たちだけ助かろうとして備え付けの小船で脱出を企てました。第2に、兵士たちが囚人の脱走を恐れて殺そうとし、パウロのいのちも危険にさらされました。第3に、船が浅瀬に乗り上げて、座礁し、壊れ始めました。助かるためには急いで脱出するしかありません。最後の難関は、激しい波を恐れずに泳いで陸にあがることです。泳げないものは板につかまり陸地を目指さねばなりません。あらゆる危険を回避し、乗船者276人全員がマルタ島の陸にあがり助かりました。神の約束の通りです。
「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から導きだされた。主は彼らをその望む港に導かれた。」詩篇107:28~30

2021年3月31日水曜日

 2021年3月28日(日) 第4主日

『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。』(イザヤ 53:9)

受難から復活へ

 今週は受難週です。まず、主イエスが、平和の君、柔和な王として、ろばの子にのってエルサレムに入場されます。群衆はホサナ(賛美の定型句)の声に包まれ入場されました。ベタニヤ村を拠点に毎日エルサレム神殿に行かれます。反対者たちの殺害の企てが進められます。十字架前夜(木曜日の夜)に弟子と共に過ぎ越しの食事をされました。弟子の足を洗い、説教をし、祈り、パンを裂き、杯を渡されました。その夜、場所を移し、ゲッセマネの園において苦悶の祈りを終えた後に捕縛されました。翌朝(金曜日)ユダヤ議会にかけられ、次に総督ピラトのもとで十字架刑が下されます。不法な者の手にイエスの身は渡され、エルサレムの市街を、十字架を担い歩まれます。ゴルゴタ(しゃれこうべ)に着くと二人の犯罪者と共に十字架につけられました。

 朝の9時から始まり昼には太陽の光を失います。昼の3時ごろ「父よ、わたしの霊をあなたの御手に委ねます。」こう言って、息をひきとられました。(ルカ 23:46) 兵士はイエスの死を確認したにもかかわらず槍で突き刺しました。イエスだけは富める者の墓に葬られました。(イザヤ 53:9) 兵士は墓の番をし、固く封印しました。安息日が明けた日曜日の朝早くイエスは甦られました。最初に復活の主に出会ったのはマグダラのマリヤです。(ヨハネ 20) その後、弟子たちには3度ご自分を表されました。そのほか多くの聖徒たちが主に会いました。

 聖書の預言の通りです。「イエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目に甦らなければならないことを、弟子たちに示し始められた。」(マタイ 16:21)

2021年3月8日月曜日

 2021年2月14日(日) 第2主日

『「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪者たちを、一人は右に、もうひとりは左に十字架につけた。その時、イエスはこう言われた。「父よ、…彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです。」』(ルカ23:34)

神からの赦し

 「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。」(使徒26:14)
 御父のもとに帰られたイエスが、ダマスコ途上でサウロに直接ヘブル語で語りかけられた言葉です。当時キリスト者を捕えて罰することが、神への奉仕であり、義の行為と思いこんで迫害を加えていました。サウロ(パウロ)は自分がしていることの間違いを悟る時が突如訪れました。

 第1に「なぜ私を迫害するのか」との問いかけ。
パウロは、太陽よりも明るく輝く光に突然照らされました。自分のしていることに神のスポットライトが投ぜられたのです。神の前に立たされる体験です。主イエスは問われます。「なぜ」そのようなことをしているのかと。人は、自分のしていることについて純粋だと思い込む傾向があります。神は、私たちが答える先にご存じです。
 「彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです。」
十字架にかけ、あざける人たちのために、イエスは御父にとりなし、赦しを願ってくださいました。パウロこそ自分がしていることがわからない者の典型です。そして、神のあわれみによって赦されるべき罪人の一人でした。赦すためにイエスは現れ、パウロは回心しました。私たちのためにもイエスは赦しを祈ってくださいました。根本問題は、「なぜわたしを迫害するのか」と問われるイエスを神の御子であると信じていないことにあります。

 第2に、とげの付いた棒を蹴る。
 農作業をする家畜に、主人はとげの付いた棒を使い鼓舞するが、繰り返して痛い目にあう家畜がいます。パウロはキリスト者に縄をかけ牢にいれるような冷徹な主人のようです。ところが、主人に反抗する家畜はパウロ自身でした。神に従順で忠実であると思い違いをしていました。むしろ神とイエスとに逆らう者でした。

 第3に、報告復活したイエスとの体験
ダマスコ途上でのパウロの体験は、パウロを回心させました。神への悔い改めとイエスへの信仰への覚醒です。パウロにとってイエスは神に呪われて十字架上で死んだ罪人でした。しかし、神はイエスを死者の中からよみがえらせて公に神の御子として示されました。キリスト者たちの証言こそが正しく自分が間違っていたことを、イエスによって説き伏せられたのです。
「…最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。」(Ⅰコリント15:8)

2021年2月5日金曜日

 2021年1月10日(日) 第2主日

『けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(新改訳第3版)』 (使徒の働き 20章24節)

慰めと励まし

 「走るべき行程を走る」(使徒20)そう言ったのは、マラソンランナーではなく、使徒パウロです。「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしていません。」(Ⅰコリント9:25、26)これもパウロの言葉です。その伝道の旅路は、シリアのアンティオキアから始まり、ギリシャにまで至り、そこからアジア州の中心エペソでは2年にわたり伝道しました。それを終えて、諸教会を訪ね、エルサレムに向かいました。先へ先へと進む姿は、まさに走路をかけるランナーのようです。まっすぐに、目標に向かって進み続けました。「いま、私は心縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで、私にどんなことが起こるかわかりません。わかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりと証されて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。」(使徒20:22、23)苦難の先にある栄冠を目指して走り続けたパウロです。

慰めの神

 パウロは苦難を受けつつも、多くの人を慰め、励ましました。それが出来たのには、「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる者をも慰めることができるのです。」(Ⅱコリント1:3、4)慰めの体験を分かつことで「慰めの神がほめたたえられるようにと」願い、多くの勧めをし続けたパウロです。「その地方を通り、多くの勧めをして兄弟たちを励ましてから、ギリシャに来た。」(使徒20:2)

神よりの慰めのことば

 聖書中の先人たちが受けた神よりの励ましと慰めは、私たちのためです。神からの慰めのメッセージを聞きましょう。「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。その罪に引き換え、2倍のものを主の手から受けたと。」(イザヤ40:1、2)
 ついに主イエスが来てくださり、神の慰めが実現しました。
 主イエスが昇天されてからは、代わりに聖霊が来てくださいました。この御方は、助け主、慰め主なる神です。キリストを信じた者は、聖霊を受けています。こうして神の慰めと励ましは、いつもそばにあるのです。

慰めの御業

 パウロは説教によって励ますと同時に、神の御業によって慰めをもたらしています。
 場所は、エルサレムに向かうトロアスの港町での出来事です。集まった人々に、パウロは明け方まで長い話をしました。聞いているうちにユテコという青年は、眠りこんでしまい、3階から転落して息絶えました。しかし、パウロは身をかがめ、抱きかかえると青年は息吹き返しました。「人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた。」(使徒20:12)今もなお、主は悲しみの中にも慰めを与えてくださっています。主イエスは、我々のために、こう言い残しておいてくださいました。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」(ヨハネ14:1、2)
 永遠のいのちの希望が与えられています。


 2025年12月21日(日) 第3主日 『主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。』 詩篇138篇8節  神の作品には、途中で放置されたままのものはありません。太陽、月、星、植物、生き物に至る...