2025年2月2日(日)第1主日
福音に生きる(良いわざについて)
福音に相応しい生き方への指導が使徒ペテロからテトスに書き送られました。2000年前にクレタ島にキリスト者の群れが誕生しました。長老を選任することがテトスの務めであったことから伝道初期の群れであることがわかります。信じた聖徒も未成熟でクレタ人の気性や生活習慣を未だぬぐい切れていません。加えて「割礼を受けている人々」つまり反抗的なユダヤ人がいて家庭を核とするキリスト者集会を破壊していました。
「徳を高める」ことを英語では、build up と言いますが、今に至るまで全教会は建て上げ続けています。人を建物に例えるならば、神を信じない生き方は土台のない、いや、間違った土台を据えた建物と言えます。 キリストを信じることでキリストを基に据えることができました。そこに建てる建物は良いわざです。良いわざに励むことはキリスト者にとって建て上げる働きであり、目指すべきところです。
「神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。」(テトス 3:8)
「キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分をささげられたのです。」(テトス 2:14)
「すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい。」(テトス 3:1)
繰り返して強調されているこのことは、全キリスト者への神の教えです。
キリスト者にとって良いわざと神が義と認めてくださった関係はこうです。
「神は私たちが行った義のわざによってではなく、…私たちがキリストの恵みによって義と認められ」たことを知っています。罪びとを救うために来てくださったキリストを信じる信仰ゆえに神が義と見做してくださいました。神の憐れみと恵みにゆえであって、私たちの良い行い(?)では決してありません。義人は良いわざこそが似合い、悪業は似合わない衣です。
神を知っていると口でいいながら、行いはまるで神不在のように生きている者がいますか。神は愛ですと口でいいながら、人を憎んで嫌って悪く言っている者がいますか。福音によって罪の赦しが与えられた証しながら、他人の過ちを指摘し続ける者がいますか。こうして神がその人を通して悪く言われ、神の教えがそしられるのです。キリスト者にとっての良いわざは、
「神の言葉が悪く言われることのないようにするためです。」(テトス 2:5)そして、
「私たちの救い主である神の教えを飾るようになる」ためです。(テトス 2:10)