2026年1月1日木曜日

 2025年12月21日(日) 第3主日

『主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。』

詩篇138篇8節

 神の作品には、途中で放置されたままのものはありません。太陽、月、星、植物、生き物に至るすべては神の栄光を現していて、見事なまでの完成品です。人の手の業だけが計画はとん挫し、廃棄物の山を生み出します。

 アブラハムに神は祝福の基となる大いなる国民の誕生を告げられました。在世中には約束の子イサクの誕生と所有地としては墓地を取得しただけでした。一世代のうちに大帝国を築きあげた歴史上の人物と比べて、アブラハムの業績は一見小さく見えます。
「あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。」
と言われた約束は、アブラハムの子孫への祝福であり、その実、アブラハムの子孫として来られた主イエス様こそは、大いなる聖名をもつお方であり、全世界に祝福をもたらすために来られました。

 人の業であればやがて消えてゆきます。しかし、神の業はいつまでも続き必ず約束されたことは成就します。たとい人の目には忘れられたようにみえても神は覚えておられます。アブラハムから、実に42代目に、主イエス様は来られました。アブラハムの神は、私たちの神であり、とこしえまでも同じです。
「神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者。」

 主イエス様に関わる全ての事を神は成し遂げられました。第1に、ベツレヘムで主イエスは誕生されました。ローマ皇帝アウグストからの住民登録をせよとの勅令によりナザレでの誕生が阻止されました。(ミカ  5:2/マタイ 2:6)第2に、ダビデの子孫として主イエス様は誕生されました。それを証明するのが系図です。(Ⅱサムエル 7:13/マタイ 2:2)第3に、アブラハムの系図とは別に神が人となる奇跡が処女降誕です。預言の通り、処女マリアは聖霊によりイエス様をみごもりました。(イザヤ 7:14/マタイ マタイ  1:23)
第4に、イエス様が誕生したときベツレヘム周辺で子を失った母の泣き叫ぶ声が聞こえるという悲劇がおきました。ヘロデ王は幼児殺害命令をくだしました。預言者の言葉の通りです。(エレミヤ 31:15/マタイ 2:16
こうして主イエス様に関わることのすべては成就しました。


2025年12月30日火曜日

 2025年11月2日(日) 第1主日

神と共に歩んだノア

 ノアは自分と家族の救いのために神の命じられたとおりに箱舟を造りました。箱舟の中に入り、戸が閉じられた日は、ノア600年目の第2の月17日、その日に大雨が地に降り始めました。大水の源と天の水門とが閉ざされるまで150日にわたり水は地に増し続け、すべての山は覆われました。これは自然災害ではなく、神の全地球的な裁きであり、人類の滅亡の出来事です。

 ノア601年目の2月17日、ノアとその家族と箱舟の中にいた生き物、鳥家畜、地の上を這うものすべては神の命令のままに従い、箱舟を造り、箱舟の中に入り、閉ざされた箱舟の空間の中で丸一年間過ごし、ついに神の命に従い箱舟から出ました。

 ノアの人格の評価には
「ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(創世記6:9)
人はひとりでいきるわけではありません。誰かと共に歩みます。仲間や集団の中に身を置くことで安心、利益、保護のもとで生活できます。しかし、ノアの時代は、安全安心が失われ、暴虐や悪への傾斜が著しい社会の中で生きていかなければなりませんでした。ノアにとって、人々と共に歩むことが極めて困難でした。その中でノアは信仰者として神と共に歩む選択をし続けました。

 神と共に歩む人生の特徴は、人の集団や思想や流れの中でも神の御心に沿った生き方を求め、選択して行くために少数派となります。あの世界の中で、生き残ったのはノアとその家族8人のみであったことが証しています。

 神と共に歩む人生には神が共におられる約束が与えられています。ノアが大洪水への備えとして箱舟を建造している時にも神は共にいてノアと共に証をし続けておられました。宣教の働きは神と共にする働きであり、そこに神も共にいると約束されています。(Ⅰペテロ3:20、マタイ28:20「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」)

 神と共に歩んだ人々は、信仰の人々として聖書に名がしるされています。
「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。」(ヘブル11:7)

2025年12月29日月曜日

 2025年10月26日(日) 第4主日

ノアの時代

 アダムの歴史(創世記5章)の中でノアの時代が記されています。ノアの名前の由来には慰めの意味が込められています。
「この子は、主がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」先祖アダムに神が宣告された通りを子孫たちは味わいました。
「大地はあなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。」(創世記3:17)しかし、神は労苦と共に安息と慰めをお与えになるお方です。6日間は働きますが、7日目は労働を停止して、聖なる日として過ごすように定めておられます。労働の苦しみに象徴される罪の結果である死から救ってくださるお方です。

 神は安息と共に慰めをお与えになりました。それが「一人の男の子」の誕生です。レメクに与えられた、一人の男の子ノアの誕生は、労苦を忘れさせ喜びを家庭にもたらす存在となりました。主イエス様の降誕の時に、エルサレムにいたシメオンはイスラエルが慰められることを待ち望んでいました。両親に抱かれた幼子イエスに会い、慰めの時の到来を告げました。慰めは神の救いの御手が差し伸べられることを待望する信仰者に備えてくださるもので、その鍵は「ひとりの男の子」として世に来られたイエス様です。

 レメクのもとで育ったノアは、やがて次のような人格者となりました。
「ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神と共に歩んだ。」(創世記6:8)時代背景と照らしてみるとノアの正しさが一層際立ちます。人の悪が増大し、堕落のゆえに世界は滅亡に向かって突き進んでいました。創造主を信じる者たちの価値観は大きく崩れました。
「人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした。」
ついには、神ご自身がこう言わざるを得ない状況まで落ちました。
「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」(創世記6:6)
ノアが生きた時代は環境としては最悪と言えます。滅びに至る道を歩む者が大多数を占める中で、狭い門、狭い道を選択し続けたのがノアだと言えます。

 堕落した世界に対して
「主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」とあります。人間が後悔するのは、やりなおすことができないからです。しかし、神が悔いた時点で、過去を終わらせて、やり直しの決定が下されました。それがノアの時代による大洪水による滅亡です。世界はノアの家族8人と生き物によって再スタートしました。今の時代もまたノア今はの時代に似ています。神のご計画は、古い天と地は過ぎ去り、新しい天と新しい地の創0造です。今は、その地に住む新たな民がつくられています。

2025年9月11日木曜日

 2025年8月10日(日) 第 2主日

岩の上に建つ教会

 詩篇34篇の前書きには、本文の「私はあらゆるときに主をほめたたえる」とある「あらゆるとき」の状況説明がされています。ダビデがサウル王に追われ、逃亡先で素性が知られてしまいます。その時に死に物狂いで別人を装い九死に一生を得ました。そんなダビデにも、「すべての敵の手」から救い出される日が訪れました。その日に歌ったのが詩篇18篇です。
「主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神 わがやぐら ほめたたえる方 私は敵から救われる。」

 神への信頼を形容する言葉、
「ヤハ、主は、とこしえの岩(セラ)だから」(イザヤ26:4)
旧約聖書では、岩(セラ)は、ごつごつした岩、つまり巌とのことです。古代ナバテヤ人の遺跡ペトラのようにごつごつした岩間に作った集落は隠れていて長年発見されませんでした。「主はわが巌」であるとダビデが言う時に、圧倒的な信頼感と守りを歌っています。エルサレムにダビデは都を築きました。そこは天然の要塞所でした。主が守ってくださるからこそ安全でした。やがて主への信頼を捨て、他の神々などに心を寄せてしまい、ダビデが築いた都も、石造りの神殿さえも破壊されてしまいました。新約聖書でも主は岩であることが告げられています。旧約聖書のお言葉
「この方に信頼する者は、誰も失望させられることがない。」(ローマ10 :11
このお方とは主イエス様のことです。

 出エジプトした民は、避けた岩から流れ出た水を飲んで活きました。そのごとくにイエス様を信じる神の民は、主イエス様がくださる命の水を飲んで活きています。
「みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。…その岩とキリストです。」(Ⅰコリント10:4)
「私はこの岩の上に教会を建てます。」(マタイ16:18)
教会の土台は主イエス様です。そこに集う聖徒たちにとって主イエス様こそが「わが巌 わが砦 わが救い主」です。

2025年8月5日火曜日

 2025年7月13日(日) 第2主日

『主は私への割り当て分また杯。あなたは私の受ける分を堅く保たれます。割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です。』(詩篇 16篇15、16節)

消えない資産

旧約聖書の「相続」という言葉は、しばしばイスラエル人に与えられた土地を指していますが、神の祝福と約束の霊的な意味合いも含んでいます。
『あなたは彼らの地で相続地を持ってはならない。…イスラエルの子らの中にあって、わたしがあなたへの割り当てであり、あなたへのゆずりである。』(民数記 18:20)イスラエル12部族中、レビ部族だけは分割地はなく、他の11部族の中に散って住みました。その代わりにレビ部族が受け取ったものがありました。ひとつには会見の幕屋で奉仕する祭司職を代々受け継ぎました。もうひとつは奉納物として主に献げる十分の一をレビ部族に神は与えると約束されました。(民数記 18:24)このことから『わたしがあなたへの割り当てである』という意味は、神に属するもの、特別に分けられたもの、聖なるものをレビ部族は相続できるということです。神がご自分の民の究極の相続財産であるという、深い霊的真理を指し示しています。(詩篇 142:5)このことは、キリスト者のことを示したものと言えます。
『朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。』(Ⅰペテロ 1:4)

キリスト者は、神の御子イエス様と共に相続する恵みに与ります。というのも、御子イエス様を信じたことで、私たちは神の子どもとなる特権を神からいただきました。
『子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。』(ローマ 8:17)

 キリストへの信仰は最高の嗣業です。「キリストにはかえられません」(聖歌 539)の歌詞の通り、自分がキリストのうちにあること以上に価値のあることはありません。世に比肩できるものはありません。

 

2025年5月3日土曜日

 2025年3月16日(日) 第3主日

『祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。』(テトスへの手紙 2章13節)

希望の福音

「永遠のいのちの望み」とは究極的には、新天新地を相続する約束のことを指しています。そこに至る前に、もう一つの大きな望みが待っています。
「イエス・キリストの栄光ある現れ」つまり、私たちを贖ってくださったお方を、この目で仰ぎ見るその日のことです。その日は「祝福されたのぞみ」と言われる日で、花婿が花嫁を迎えに来て、ついに婚礼の宴に招き入れられる日のようです。キリストは聖徒を迎えるために再び来られます。

 主イエスが来られる日、聖徒たちは、たちまち主の御許へと携え上げられます。すべての聖徒たちは甦り、主イエスが死に勝ったと同じ復活の体へと変えられます。罪なき体、永遠の命に生きるために備えられた体が与えられます。その体をもって新しい天と新しい地を相続しています。誰もが栄光の姿に造り変えられ、主イエス・キリストに似た者となるのです。祝福はここに極まります。

「主イエスの栄光ある現れ」とあるように神聖な栄光の輝きを放ち来られます。
「人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。」(マタイ 24:30)

「主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。」(Ⅱテサロニケ 1:17)聖徒にとっては祝福の日ですが、福音に従わない者にとっては裁きの日です。

 主イエス様の再臨を待ち望むことは、聖徒たちを励まし、清潔を保つこと関係します。
「このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として平安をもって御前にでられるように励みなさい。」(Ⅱペテロ 3:14)
放蕩や眠りに陥るのは、主人の帰りは遅いと思うからです。

 私たちが、主イエス様の再臨を告白しないならば希望を見失います。確実に世の終わりへと突き進んでいます。核の火種をかかえながらの紛争や戦禍による食糧難からくる物価高騰。かたや市場を折檻している物欲主義と富の一極集中化は大バビロン到来への道備えです。分断と対立をあおるばかりの社会構造の中で徐々に愛することが奪い去られて行きます。しかし、私たちは、主イエス様の大いなる栄光の輝きの現れの日を待ちます。

2025年2月15日土曜日

 2025年2月2日(日)第1主日

福音に生きる(良いわざについて)

 福音に相応しい生き方への指導が使徒ペテロからテトスに書き送られました。2000年前にクレタ島にキリスト者の群れが誕生しました。長老を選任することがテトスの務めであったことから伝道初期の群れであることがわかります。信じた聖徒も未成熟でクレタ人の気性や生活習慣を未だぬぐい切れていません。加えて「割礼を受けている人々」つまり反抗的なユダヤ人がいて家庭を核とするキリスト者集会を破壊していました。

 「徳を高める」ことを英語では、build up と言いますが、今に至るまで全教会は建て上げ続けています。人を建物に例えるならば、神を信じない生き方は土台のない、いや、間違った土台を据えた建物と言えます。 キリストを信じることでキリストを基に据えることができました。そこに建てる建物は良いわざです。良いわざに励むことはキリスト者にとって建て上げる働きであり、目指すべきところです。
「神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。」(テトス 3:8)
「キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分をささげられたのです。」(テトス 2:14)
「すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい。」(テトス 3:1)
繰り返して強調されているこのことは、全キリスト者への神の教えです。

 キリスト者にとって良いわざと神が義と認めてくださった関係はこうです。
「神は私たちが行った義のわざによってではなく、…私たちがキリストの恵みによって義と認められ」たことを知っています。罪びとを救うために来てくださったキリストを信じる信仰ゆえに神が義と見做してくださいました。神の憐れみと恵みにゆえであって、私たちの良い行い(?)では決してありません。義人は良いわざこそが似合い、悪業は似合わない衣です。

 神を知っていると口でいいながら、行いはまるで神不在のように生きている者がいますか。神は愛ですと口でいいながら、人を憎んで嫌って悪く言っている者がいますか。福音によって罪の赦しが与えられた証しながら、他人の過ちを指摘し続ける者がいますか。こうして神がその人を通して悪く言われ、神の教えがそしられるのです。キリスト者にとっての良いわざは、
「神の言葉が悪く言われることのないようにするためです。」(テトス 2:5)そして、
「私たちの救い主である神の教えを飾るようになる」ためです。(テトス 2:10)

 2025年12月21日(日) 第3主日 『主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。』 詩篇138篇8節  神の作品には、途中で放置されたままのものはありません。太陽、月、星、植物、生き物に至る...