2024年6月1日土曜日

 2024年5月5日(日) 第 1主日

『ですから、神の右の座に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。』(使徒 2章33節)

 歴史は繰り返されるからと言って、すべてはその時々の出来事です。誕生のお祝いは毎年ですが、生まれた日は一度限りです。偉業を成し遂げた人だけは亡くなっても生誕が祝われます。その他の人は没日を覚えます。私たちの主イエスに関しては、降誕はAD・BCと歴史の暦を分かつ出来事に位置づけられています。キリストの受難と十字架上の死は、パンとブドウ液とを分かち記念し続けていました。キリストにはその後にも特筆すべき一度限りの出来事が続きます。埋葬後、三日目の復活と40日後の昇天です。私たちには、拒否するか受け入れるか、それ以外に、この歴史に対して余地はありません。

 古代ピラミッドは現代人が墓を開いて発見し続けています。キリストについては歴史が覆されるような発見は、今に至るまでありません。空の墓が証しています。すでに使徒たちの時代において証言は完結し終えました。
「キリストは聖書に書いてあるとおりに私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに三日目によみがえられたこと、」(1コリント15:3、4)
「この福音」と呼ばれていて使徒パウロの宣教の言葉は、すでに完結して公となっていると教えています。

 主イエスの復活から7週目、昇天後10日たち、約束通り聖霊が120人ほどの人々に臨まれました。歴史上一回かぎりのイエスが約束されていた聖霊が遣わされた日です。それ以後、聖霊は、地上を去ることもなく天に昇ることもなく、聖徒たちを助け続けておられます。
「助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」(ヨハネ14:26、16:7)とイエスが紹介されています。助け主(パレクレトス)は、援助者、とりなし手を意味します。教会は主の命令を受けていますが、肉の力では何事もなしえません。聖書を教えるには真理の御霊と呼ばれるお方の教導が必須です。語る者も、教えを聞く者も共に助け主の内在的な働きを大いに期待するものです。ことに伝道は神よりの知恵と能力を必要とする働きです。「炎のような舌」が留まった結果、弟子たちは「神の大きな御業を語る」ことができました。体験自体は一度きりでも、今に至るまで福音は宣べ伝えられ、炎は燃え続けています。

2024年5月2日木曜日

 2024年4月28日(日) 第 4主日

『こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。』(ローマ 5章 1節)

この世の流れ

 風がやんで海が穏やかになることを「なぎ」と言います。和とは社会では対立や疎外がなく、集団がまとまった状態を指しています。もめごとが起きるのを、波風が立つとも言い、調和を乱す者への抑止力が働きます。そこには「空気」と呼ばれている、大きな影響力をもつ判断基準が存在しています。使徒パウロの言う「この世の流れに従う」(エペソ 2:2)とも重なる部分です。

 キリスト者は、空気とは違う、地の塩であり、世の光であると言われています。世の流れに一石を投ずるとまではいかなくても、独自の判断基準を持って歩む民なのです。そこには個人の確立が不可欠です。信仰はそのせめぎ合いです。神と共に歩んだ人の生涯の特徴は、神がその人を名前で呼んでくださるということです。私たちもまた、特別な存在なのです。

 キリスト者は、神は世を愛しておられることを信じています。同じく、世を愛する神は、私をも愛してくださっています。万物の創造主は、私の神、私の主です。イエス・キリストの死もまた、私の罪のためでもあったことを公に告白しています。トマスが復活の主イエスに向かい「私の主、私の神よ。」と告白していますが、私たちもそのように告白します。

 「あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」
イエスがペテロに問われた言葉です。内心を言葉で表明するようにと導かれた質問です。「わたしを愛していますか。」
この問いかけは、ペテロ個人に問われてはいますが、かたわらにいたヨハネは自分への言葉かけとして自ら行動を起こしました。同じ使徒とは言え、信仰の歩みは互いに異なりペテロには殉教を、ヨハネには長命を、イエスは予告されています。(ヨハネ 21:19、22)イエスの愛においては後の者が先になり、先の者が後になります。若いヨハネがペテロに先んじている一面が垣間見られます。本来、愛は自由性から発するもので、空気を読む世界の真反対の行為です。

 やがて最後の審判(白き御座のさばき)が行われます。「自分の行いに応じてさばかれた。」
誰がこのさばきに耐えることができるでしょうか。キリスト者には弁護者であり、なだめの供え物としてご自分の命をささげてくださったカタイエスがおられます。聖霊は御父と御子イエスとの交わりを聖徒たちの間で育まれます。
「彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。」(使徒 1:14)

2024年4月3日水曜日

 2024年3月31日(日) 第 5主日

『「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪びとたちの手に引き渡され、十字架につけられて、三日目に甦ると言われたでしょう。」彼女たちはイエスの言葉を思い出した。』(ルカ24章 5~7節)

死者の復活

 春分の日を境にして昼間が長くなり続け夏至を迎えます。この頃、太陽は真東から真西へと沈み赤道の真上を通過します。南半球と北半球とが公平に太陽の光を受けます。この時期に墓参りに行くのは彼岸と此岸と接近するからと聞くと背景に自然宗教があるように思います。
 自然の上にある存在、万物の支配者である神への信仰を根源とする聖書観は異なります。自然は神のしもべであり、全能の力の輝きを現します。神の命令により太陽は留まり、日時計は逆戻りします。特に主イエスが十字架に上げられていた時、昼の12時から午後3時まで全地は暗くなり、太陽は光を失いました。(ルカ23:44、45)やがて、神の御怒りの現れりの日には、天の星々は振り落とされ、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面は血のようになる。(黙示録 6:12、13)神の正しい怒りが天体を通して示されます。

 人もまた神の命令に従い、死者は復活させられ、大いなる白き御座の前に立ち、その行いに応じた審判がくだされる日が定まっています。その御座に御子イエスが着かれます。
「人間には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているように」(ヘブル 9:27)人生には必ず報いと精算との日が待っていて、神の義にもとづいて、おのおのにふさわしい審判が下されます。

 義人は命へと復活します。その確かな保証は、主イエスは極悪人のひとりとして死罪に処せられたが、神はイエスを甦らせてイエスが義であることを公にされました。復活の証人たちが選ばれて証言している通りです。

 最後の審判を過ぎ越すことができるのは、御子イエスによる罪の赦しを信じ、義と認められた者たちです。過ぎ越しの起源は、エジプトに住んでいたイスラエル民族が脱出するその夜、子羊を屠りその血を門柱に塗った家だけは滅ぼす者が過ぎ越して行ったことにあります。(出エジプト12)過ぎ越しの犠牲の血による救いは予見でした。我々への罪の裁きが過ぎ越されるために屠られた子羊とは、神の御子イエスのことです。

2024年2月23日金曜日

 2024年2月4日(日) 第1主日

『あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。』(ルカ 24章 5節)

真の答え

 イエスの遺体が治められていた墓にガリラヤから従ってきた女性たちは週の明け方早くに訪れました。そこで良き知らせを御使いから聞かされました。悲しみの場所、亡骸が埋葬されている所で、単なる慰めの言葉とは異なる次元のメッセージを聞いたのです。それは空の墓が意味する唯一の答えです。人の思考や経験では答えが出せないで、ただ途方にくれるしかない難題です。決定的で最高の答えが厳かなうちに、光輝く御使いによって語られました。女性たちは、その尊厳さに圧倒されてひれ伏します。
「ここにはおられません。」
ではどこに。
「よみがえられたのです。」
なんと簡潔なメッセージでしょうか。だが、真実に裏打ちされた権威在る語りです。御使いが語るゆえの、権威とは別のところに核心があります。
「主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
主イエスのお言葉にこそ、空の墓と甦りを結びつけ、一切の疑念も戸惑いも晴らす答えがあるのです。知っていながら聞いていながら、空の墓を前にして、誰もが見出せません。でも答えはすでに事前にイエスが与えていたのです。これまで聞いたみ言葉が、やがて訪れる難題に向かう時にどれほど、思い出されるのか問われています。

 女性たちと今に生きる私たちとは重なり合います。空の墓を見た女性たちと同じで、今も、私の前に示されているのは空の墓です。彼女たちは復活のイエスに未だ会ってはいません。これも私たちと同じです。誰かがイエスのよみがえりを指し示し教えました。彼女たちは御使いではありましたが、重要な点は、御使いが指示した、イエスの約束ごとです。これは私たちが手にしている聖書です。そこには必要な啓示が残されています。十分なるイエスの言葉が記されています。これは、ガリラヤの女性が聞いたお言葉と同じみ言葉です。直接イエスから聞いたことと、聖書を通して聞いたことという違いはあっても、み言葉を聞いて忘れていた点ではガリラヤの女性と我々とでは変わりがありません。御使いの告げた、聞いたみ言葉を思いこさなかった点への指摘は我々へのものです。
「主が語られたお言葉を思い出しなさい。」
聖書は読み聞かされている人、覚えている人、きっと大切な時に思い起こさせてくださると信じています。途方に暮れている者への真の解決となって行く、それが聖書のお言葉でありますように。

2024年2月7日水曜日

 2024年1月14日(日) 第2主日

『彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕らえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。』(ルカ 23章 26、27節)

シモンが背負ったイエスの十字架

 ゴルゴダは十字架刑の刑場です。そこへの途上に起きた出来事の一つが、主イエスの十字架を無理やり背負わされたクレネ人シモンのことです。過ぎ越しの祭りでエルサレムに来ていたシモンのヘブル読みはシメオンですからユダヤジンと思われます。なぜ、シモンが選ばれたのか。田舎から出て来た者、都会人とは違う屈強そうな体格が目に留まったのかもしれません。しかし、神の御心が先にあって、その役割を担いました。

 犯罪人は、見せしめのために十字架を背に担わせて市中を歩かせられました。神の御子イエスが、聖なる都エルサレムで同じ目にあったことで、片隅での出来事ではなくなりました。
「主は私たちのすべてのものの咎を彼に担わせた。」(イザヤ 53:6)
イザヤの預言が、ここに成就して行きました。

 本来、私たちが背負うべきはずの刑それが十字架であり、律法学者、神に呪われた者であることを示しています。イエスの十字架をシモンが背負い拒むことができなかったのは、それは誰もが背負わねばならない、いや、すでに背負って歩んでいる、その姿を示していると思います。また、シメオンはイエスの御足後を踏み、キリストの弟子の歩みの模範を示しました。

 ついにゴルゴダに着きます。シモンの肩にかかった十字架の重には取り去られて、イエスに完全に渡されました。イエスが私たちの罪の重荷のすべてを受け取ってくださったので、私たちは、罪の重荷を取り去られました。今は、新たな使命という重荷を背負って歩んでいます。

2024年1月13日土曜日

 2023年12月3日(日) 第 1主日

『あなたがたに言いますが、「彼は不法な者たちとともに数えられた」と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現するのです。』(ルカ 22章37節)

数えられたイエス

 イエス・キリストが降誕した時にローマ皇帝アウグストは帝国下の人々に住民登録を義務付けました。今風に言えば、占領地に住む人々にも I D 登録と納税義務を紐づけされたわけです。この出来事によって、イエスもまた人として数えられました。同時にダビデの子孫としての証明がされました。

 唯一の神が人として数えられています。神は数えられるべきご存在ではなく、まして人の中に混ざり合うことなどありえません。それでもなお、人となられた目的は、神との和解を実現する仲介者となるためです。
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(第 1 テモテ 2:5)
 十字架上での主イエスの祈りは、最期まで罪びとのために執り成しをする姿そのものです。
「父よ。かれらを、お赦しください。彼らは、何をしているか分かっていないのです。」(ルカ 23:34)
 その時、イエスはまぎれもなく犯罪人の一人に数えられ、神に呪われた者たちと共に十字架に処せられました。イザヤ書 53 章 2 節の通りです。

 使徒パウロはローマの市民権を有していました。持たない者には金を払ってまでも欲する価値のあるものでした。
 『けれども私たちの国籍は天にあります。』(ピリピ 3章18 節)
 天国籍は、比べることもできない価値ある国籍です。第1に、神よりの恵みによって与えられるものだからです。第 2 に、永遠に続く神の御国だからです。バビロンは滅びました。大バビロンも必ずや神が裁き滅びます。第 3 に、神の国民には永遠の命の約束が伴い与えられます。国民の命を守ることが国家の務めだとすれば、神の国の国民には永遠の命と幸いとが与えられます。第 4 に、イエス・キリストこそが王であり主として治められる国です。平和の君、万民のために罪の代価としてご自分の命をささげられた愛なるお方です。天国の民の一人として数えられる者は幸いです。


2023年12月4日月曜日

 2023年11月12日(日) 第2主日

『そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。』(ルカ 21章27節)

異邦人の時

 エルサレムでの主イエスの説教は、ご自分の身に十字架での死が迫る中で、話は人々の上に必ず臨む滅亡のことに向けられています。
 エルサレム滅亡の語りは、非常に具体的なものでした。訪れの知らせは、エルサレムが軍隊に包囲されることです。その時には「逃げなさい」。主イエスの説教を無視して、なおも都の中に留まる者、あえて都に戻る者には、神の御怒りによる大きな患難にあいます。剣の刃に倒れ、捕虜として連れて行かれます。キリスト者は、災いから逃れて別の町で生き延びました。

 「異邦人の時が満ちるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」神の御怒りは一定の期間であり、「異邦人の時が満ちるまで。」と定められています。時が満ちれば回復がやってきます。歴史の語る通り、ローマ軍が城壁を破壊して踏み込み、神殿の聖所内にあった金の燭台をはじめ、奉献品を戦利品としました。神殿のあった場所にはイスラム教のモスクが今も建っています。オスマン帝国など、諸外国の統治下におかれてきました。イスラエル建国が現実となった今でも、神殿はなく、西壁が民族にとっての礼拝場所です。

「異邦人」の意味は神が祝福の契約を結んだアブラハムの子孫、ヤコブの子孫の側から見て、それ以外の諸国民を指します。「異邦人の時」とイエスが言われた意味あいは、エルサレムは元より、この世界の支配や統治が異邦人の手の中に置かれる期間を言い、御国を来たらせたまえと祈らざるをえない期間です。神の義や聖や憐れみを知らない者が君主となり治めるのですから。

 イエスが十字架刑に処せられる前にユダヤ最高議会を開き、有罪判決をくだし、イエスを異邦人の手に引き渡しました。やむなくローマ総督ピラトは死罪を言い渡しました。イエスを異邦人の手に引き渡してしまったことで、自分たちが異邦人に引き渡される苦い運命を招くことになりました。異邦人の支配は不幸で戦争を繰り返します。(使徒2:36、3:13~15

 使徒パウロは「異邦人の時」を説き明かしています。
「この奥義を知らずにいてほしくありません。イスラエルの一部が頑なになったのは異邦人の時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ 11:25)
今は、異邦人の季節です。刈り入れは世界中です。キリストが来て異邦人の支配を終わらせます。「エルサレムに優しく語りかけよ。…その苦役は終わり、その咎は贖われている、と」(イザヤ40:2)

 2025年12月21日(日) 第3主日 『主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。』 詩篇138篇8節  神の作品には、途中で放置されたままのものはありません。太陽、月、星、植物、生き物に至る...