2019年12月31日火曜日

2019年12月22日(日) 第4主日

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1章45節)

イエス降誕のとき 

 神の顕現の時、主イエス・キリストの降誕を覚え、感謝と賛美を神にお捧げいたします。神は世を愛されました。その愛は、いと高き所にある神の栄光の御座から離れて、地に住む民の一人となられたほどです。時が来て、聖霊によりダビデ王の子孫マリヤの胎に宿り誕生されました。神が人となられた日です。神が人と共に住むという意味、インマヌエルの実現です。
 その詳細はルカ福音書に記されていて世界の人にも分かるように王名が記されています。初代ローマ皇帝アウグスト(紀元前27~紀元14年)の時代です。ユダヤでは、ヘロデ家4世代の初代ヘロデ大王(前37年~4年)の時にキリストは誕生されたとあります。 ユダヤ人に良く分かるように、エリヤの再来と信望されていた、大いなる預言者バプテスマのヨハネの誕生と抱き合わせて記されています。御使いガブリエルが神から遣わされて、おとめマリヤに受胎告知をした時は、預言者ヨハネの母エリサベツが身ごもってから6か月目のことです。その月から3ヶ月間、身ごもったばかりのマリヤは、すでにヨハネを胎に宿すエリサベツのもとに身を置きました。その間、一つ御霊によって感動を受けて賛美しました。この時の正確な詳細は、直接マリヤからルカが聞いたものであると思われます。
 
 さて、いよいよイエスの誕生の時の記述になります。クレニオがシリヤの総督であったとき、皇帝勅令により最初の住民登録がなされました。ヨセフと身重のマリヤも160キロの旅を強制されました。結果、聖書の預言の通りに救い主イエスは、ダビデ王の出生地ベツレヘムで、時満ちて誕生されるに至りました。「わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから」(イザヤ 7:14)
 こうして、確かな出来事として実現しました。

2019年12月1日(日) 第1主日

『イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方であり。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。』ヨハネの黙示録1章5、6節

              解放

 旧約聖書にはイスラエルの歴史が記されているが、エジプトの奴隷から救い出された出来事が大きな意味をもっている。以後、解放の時が、第1の月となった。エジプト出発の夜は、代々に受け継がれ、過越の祭りとして記念されている。全能の神の、偉大な力が示された出来事であり、賛美の歌となっている。(出エ15章、詩篇78、114、135、136)
 神の契約の確かさと、輝かしい救いの光が照り輝いた時である。その日は、エジプトの奴隷からの解放の日であり、同時に、エジプトの国への裁きの日であり、エジプト軍への神の圧倒的な勝利の日でもある。
 
 神のお言葉を見よう。「わたしは主である。わたしはあなたをエジプトの苦役の下から連れだし、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神と、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。」(出エジプト6章6、7節)
 
 自由の身となったことには目的があった。「わたしの民、あなたがたの神」となるためであった。祭司の王国と呼ばれる国の実現のためである。
 新約聖書に目を転じれば、罪の奴隷から解放された民がいる。救い出された目的は、祭司の王国の実現のためである。救い出したお方は、私たちの主イエス・キリストであり、このお方が贖いの代価となった過越の小羊である。私たちは神のものとされた。賛美しよう。

2019年11月30日土曜日

2019年11月24日(日) 第4主日

『あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。』
(ユダの手紙24、25節)

ただ、神を恐れよ

「空の空、すべては空」エルサレムでの王、ダビデの子ソロモンは、若者たちに向けて書き残しました。万事は、捕らえたと思っても、するりと逃げて行く風のようだ。夢を抱き多くの計画を口にしたところで、無駄に終わる。労苦には終わりはなく、最期にはすべての人は裸で世を去るのだから。勢いのある成長戦略に対し大きく制御をかける王の指針です。

 神への礼拝姿勢についても内省を促します。「神の宮に行くときは、自分の足に気をつけよ。」神殿に赴く回数が増すと、中身のない空しい礼拝が繰り返されて行きます。主イエスの招きを聞きましょう。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

 神の律法を近寄って聞く人は、悪事を悔い改めないで犠牲を捧げている人に勝ると断定します。主イエスを、忙しくもてなすマルタの不満は、手伝いもせずに、じっとイエスの言葉に傾聴するマリヤに向けられました。いずれが神に喜ばれるのでしょうか。
 
 祈りについても、「軽々しく、心あせって言葉を出すな。」ことばの多さについての注意です。神はいと高きところにおられる存在です。人は地にいる小さな存在であることを自覚せよと。主イエスも繰り返しの多い空しい祈りを注意されました。「ことば数が多ければ聞かれると思っている。」
 
 ソロモンは大切なのは、「ただ神を恐れよ」(伝道者の書5:7)そう繰り返します。神を恐れるとは、神を聖とすることです。神を、他のなにものからも分離し、もっとも高くあげることです。

 「唯一の神」を告白することは、私たちの救い主である神を、この世の生み出した神々の中に決しておかず、混同もしないことです。唯一の神の栄光、尊厳、支配、権威を知って、私たちが応答することです。褒め称え、従い、高くあげることが神を恐れることです。

2019年11月4日月曜日

2019年10月20日(日) 第3主日

「神によって生まれたのです。」(Ⅰヨハネ5:1)

新しく生まれた人たち

 生まれるのはただ一度だけの出来事です。生まれるのは新しい命の誕生です。生まれるのは新たに家族に加えられる出来事です。生まれるのは神の奇跡の御業です。生まれるのは最も大いなる喜びの訪れです。イエス・キリストにある者は、「新しく生まれた」(Ⅰペテロ1:3、23)new birth .born again.
です。
 新生した者でなければ神の国に入ることはできないと主イエスは言われました。国籍を取得しようとするのでさえも、出生が問われます。まして、神の家族、神の国の一員たるものにとっては神によって生まれていることこそ、最も重要なことです。
 イエス・キリストの教会もまた、新生した者以外は教会員にはなれません。両親がキリスト者だから自動的に加えられるのでも、洗礼を幼児期に受けているからとか、そうした理由にはよりません。教会に加えられた人はバプテスマを受けています。つまり、バプテスマは神によって生まれた者が受けるのであって、バプテスマによって新生するのではありません。

 神によって生まれるとはなんでしょうか。古い自分に一度死んだ人です。神なく、キリストなく、救いなく、生まれながらの性質そのままに生きてきたことに終わりを告げた人です。キリストと共に死んだのです。同時に、キリストが死者の中かから甦られたように、キリストにあって、生きている人です。(ガラテヤ2:20)
 神によって生まれた人は、神の子どもとしての自覚と心が与えられました。
「神は、アバ、父と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6)

 最後に、新しく生まれた人は、神を愛する人です。また、神によって生まれた兄弟姉妹を愛する人々です。(Ⅰヨハネ5:1)

2019年10月13日(日) 第2主日

「よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。」(ヨハネ第2の手紙 1章8節)

喜びがまったきものとなるために

 人への伝達手段は種々あります。電子メール、写真に動画、ライブカメラをもあり、情報量は増すばかりです。しかし、人と人とが直接会って語り合うのは、最も喜ばしいことです。
 ヨハネの第2の手紙で言われている通りです。
「あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためです。」
 使徒パウロも同じで、ローマにいる聖徒たちに会いたいと願いました。幾度も妨げられた結果、ローマ人への手紙を書きあげました。

 主イエスの手紙はあるのでしょうか。パウロ、ヨハネの手紙はあるのですから。ヨハネの黙示録1章~3章には、ヨハネが代筆した、御父の右の座に着かれた主イエスからの七つの教会あての手紙が存在します。手紙が諸教会あてに届けられ、読み継がれて今に至りました。
 主イエスの地上での生涯においては、記された手紙はありません。もともと手紙は、直接行って会えない代わりの手段です。イエスは、行くべきところ、会うべき人のところへ、いずこでも行かれました。言葉である主イエスご自身が、手紙にはよらず、自分で赴かれました。エリコに住む取税人ザアカイの家に泊まり、お救いになりました。(ルカ19章)湖の対外ゲラサに住むレギオンに支配された男性の所に行って解放されました。

 主イエスは、しるしと不思議を行い、神の言葉を残されました。それを誤りなく、聖霊の導きによって書いたのが、福音書です。今や、全世界の国人に届いています。歴史を通じて、書き換えられることなく、紙とインクで書かれたものとして読み継がれています。
 福音書は、ある意味で主イエスからの手紙とも考えられます。なぜなら、主イエスは、今は天の父の御元におられて直接にはお会いできないからです。顔と顔とを合わせて会うその喜びの日まで、聖書は私たちへの神からの手紙です。やがて、主イエスと相まみえる時が訪れます。その時、喜びがまったきものとなります。

2019年10月3日木曜日

2019年9月29日(日) 第5主日

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(Ⅰヨハネ5章14節)

           御心にかなうこと

1.知恵を求めることはみこころにかなうごと。(ヤコブ1章5節)

 王となったばかりのソロモンが、神に求めたことは「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」この願い事は主の御心にかなった。(1列王記3章9,10節)その結果、知恵の心と判断する心とが与えられました。ソロモンが求めなかったものは、富と誉れ、長寿と敵のいのちでした。自分の心の満足が優先しませんでした。神の働きのために必要なものが何であるのかをわきまえていました。
御心にかなう願いをするのに必要なもの、それが知恵だとも言えます。
 
2.愛を求めることこそみこころにかなうこと。(Ⅰコリント14章1節)

 私たちに欠けたものは信仰と希望と愛です。その中で、最も欠けているもの、それが愛です。神に対するたゆむことのない信頼が揺らぐ時があります。結果不安が訪れます。信仰は恐れを締め出します。神への信頼を見失うと行く先に希望が見えてきません。いつも神への信頼を抱き、希望をもつならば、喜びが与えられます。でも、欠けています。

3.愛があれば、おそれが締め出され、希望がわいてきます。愛があれば喜びもわきます。愛があれば祈ります。あらゆる行動の規範になるのが、愛です。なんと欠けていることか。ですから愛を求めることは神の御心にかなうことです。「愛を追い求めなさい」(Ⅰコリント14章1節)

4.願いがたとい妨げられても。(ローマ1章13節)

 使徒パウロは、神の御心を果たそうとローマの信者への訪問を強く願いましたが、幾度も妨げられました。しかし、最後には、実現しました。差妨げのただなかで、執筆されたのがローマ人への手紙です。

2019年9月22日(日) 第4主日

「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」Ⅰヨハネ5:4、5             

              信仰は勝利

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」
 ヨハネ福音書3章16節にある「世」とはどのような意味で使われているのでしょうか。コスモス(宇宙)は、単に天体観測の対象ではありません。
 天には神の御座があり、父である神、御子イエスがその中心におられます。無数の御使いたち、贖われた聖徒たちは神に礼拝をささげています。いと高き所と呼ばれています。
 それに対して、この世があります。そこもまた、神の支配があり、神の恵みが注がれています。「世を愛された」と言われているように、何よりも神の愛がそそがれています。キリストを信じる者たちは、この世にあって、その神に愛された者たちです。
 Ⅰヨハネの手紙には「全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」(Ⅰヨハネ5:19) 当時は、ローマ帝国の支配下に置かれていました。キリスト者は、皇帝礼拝のおきてには従いませんでした。神の国に帰属する者として、神の命令を第1としました。ローマ人への手紙にあるように「イエスを主と告白する」ことが信仰者の証でした。ローマ帝国の命令は人々に思い負担を強いました。しかし、神の命令は、それとは異なり「その命令は重荷とはなりません。」(Ⅰヨハネ5:3) 主イエスが与えた命令と、世界が下す命令とが真っ向から対立していた時代、それが当時の「世」です。
 
 サタンとは神に敵対する者を言い、あらゆる悪の源、初めからの人殺し、偽りの源、堕落した天使長です。その魂胆は、神への礼拝を盗むことです。異なる教えや、異なる神々、人間の欲の代償、それは人の心を盗むことです。知らないうちに、サタンにひれ伏し、仕えることになります。
 キリスト者のそうした世との戦いの結末は、すでに決まっています。主イエスは世に来てすでに勝利されました。復活はそれを如実に示します。信仰は勝利へと導きます。主イエス・キリストへの信仰なくしては、惨めな敗北を味わいます。私たちはそのことを知っています。

 2025年12月21日(日) 第3主日 『主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。』 詩篇138篇8節  神の作品には、途中で放置されたままのものはありません。太陽、月、星、植物、生き物に至る...