2019年5月19日(日) 第3主日
『兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。』(ヨハネ19:25~27)
イエスの十字架のそばにいた人々
主イエスが十字架につけられた時、多くの人々がイエスをそしり、あざけりました。しかし、そのただ中で、主イエスの側に立った者たちがいました。
1.アリマタヤのヨセフの生き方
ユダヤの議員でヨセフと言う人です。「この人は、議員たちの計画や行動には同意しなかった。」(ルカ23:50、51) 大多数がイエスを死罪だと叫ぶ中で、ヨセフは孤高の道を選択しました。りっぱな、正しい人で、神の国を待ち望んでいたと呼ばれる所以です。ヨセフは、誰もがしようとしなかった、否、できなかった特筆すべき行動に出ました。主イエスの体を十字架から取り降ろし、未使用の墓に丁重に葬りました。結果、「彼は富む者と共に葬られた。」(イザヤ53:9)とのイエスの埋葬の預言が実現しました。
2.勇気と決断
間違っていることに同調しないことには、大きな勇気が必要だったはずです。ヨセフを、りっぱな人と呼ぶにふさわしい所以は、この決断と実行力です。正しいことを行おうとする時、恐れて弱くなりがちです。「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ4:17) キリスト者が、罪意識にさいなまれるのは、この事柄です。神に喜ばれること、あるいは、喜ばれないことを知りました。罪が何であるかも知りました。しかし、なお、欠けているのは、行おうとする決断と勇気です。その力はどこから来るのでしょうか。
3.神の国を待望する信仰
ヨセフの信仰の特徴は、次のように言われています。「神の国を待ち望んでいた。」(ルカ23:51) 人間による支配と権威は終わり、神の直接的支配が実現する日、つまりキリストの到来を待望んでいました。神の国は神の義が支配する世界です。不正は消えて義の光が照る世界です。その実現を待望する人は、ヨセフのように、正しく歩みます。
4.私たちの希望と誇り
主イエスの地上再臨により、神の国が到来します。その日を待ち望むのは、私たちも同じです。そして、主イエスの「十字架を決して恥とはしません」と、パウロも言いましたが、私たちも十字架を恥とはせず、誇りとします。
2019年6月1日土曜日
2019年5月12日(日) 第2主日
「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:3)
ギリシャ語で頭骸骨を表すクラニオン「どくろの地」、ヘブル語ではエルサレムの近くにある丘の名前で「ゴルゴタ」と呼んだ処刑場がありました。そこでイエスは二人の犯罪人と共に十字架につけられました。預言者イザヤが告げた苦難のしもべ、そのままにイエスは、人々からさげすまれました。
1.道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」(マタイ27:39)
2.祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」(:41~43)
3.イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。(:44)十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。(ルカ23:39)
4.ローマの兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。(ルカ23:36、37)彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわってイエスの見張りをした。(マタイ27:35、36)
5.主イエスは、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(1ペテロ2:23) それどころか、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と祈られました。
主イエスは、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。(1ペテロ2:24)
「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:3)
ギリシャ語で頭骸骨を表すクラニオン「どくろの地」、ヘブル語ではエルサレムの近くにある丘の名前で「ゴルゴタ」と呼んだ処刑場がありました。そこでイエスは二人の犯罪人と共に十字架につけられました。預言者イザヤが告げた苦難のしもべ、そのままにイエスは、人々からさげすまれました。
1.道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」(マタイ27:39)
2.祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」(:41~43)
3.イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。(:44)十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。(ルカ23:39)
4.ローマの兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。(ルカ23:36、37)彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわってイエスの見張りをした。(マタイ27:35、36)
5.主イエスは、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(1ペテロ2:23) それどころか、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と祈られました。
主イエスは、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。(1ペテロ2:24)
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