2019年8月7日水曜日

2019年7月14日(日)第2主日

『私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もし誰かが罪を犯したのなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。』(Ⅰヨハネ2章1、2節) 

信じた後に犯す罪

 ヨハネ第1の手紙は、神の御子を信じて、永遠のいのちを得た者にむけて書かれています。(Ⅰヨハネ5:13)信仰をもつ以前、あるいはバプテスマを受けてキリストに従うまでの罪については、福音書を読むと明らかです。
姦淫の女の罪をゆるしたイエス。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」(ヨハネ8:11)
罪人と呼ばれていたザアカイを見出して救うお方イエス。(ルカ19)
極めつけは十字架でイエスと共に処刑された犯罪人の一人の救い。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)
間違いなく、どんな罪人でも、あるいは、いかなる罪であっても、主イエスを信じる者は赦されます。
 では、信じた後のキリスト者の罪はどうなるのでしょうか。
 
 第1に、私たちは神の愛を信じています。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」(Ⅰヨハネ4:10)
 神の方からの愛と赦しによって救いを受け取りました。重々承知の上で、お救いくださいました。
 
 第2に、キリスト者の罪のための神の怒りは御子イエスの十字架によって過ぎ去りました。
 「この方こそ、私たちの罪のための、なだめの供え物なのです。」(2:2)
 以前には、神の怒りをなだめるために、多くの動物の生贄が全焼としてささげられました。(創8:21、レビ4:31)

 第3に、キリスト者のために主イエスは弁護してくださいます。義なるイエス・キリスト、人となり、一度も罪を犯すことのなかったお方こそが、神の前における私たちの弁護者です。

 第4に、キリスト者は、もはや罪の内を、継続的に歩み続けることはありません。神の子となったからです。(3:8、9) 

2019年7月1日月曜日

2019年6月30日(日) 第5主日

「あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21章22節)

1.最後の証人となった使徒ヨハネ

 主イエスの使徒たちは、主の御名のゆえに、ほぼ全員が殉教を遂げました。ゼベダイの子で使徒ヨハネの兄弟ヤコブはヘロデ・アグリッパ1世(44年没・ヘロデ大王の孫)により剣で殺されました。大使徒とも評されていたペテロは、ネロ皇帝下で殉教したと言われています。そんな中、最後の生き残りの証人なったのが使徒ヨハネです。その大きな目的は、聖書66巻を完成させるために神が用いたことです。ヨハネ福音書、ヨハネ黙示録、Ⅰヨハネ Ⅱ、Ⅲの手紙がそれです。

2.神の愛を知ったヨハネ

 ヨハネは、その福音書中で、自分のことを「イエスが愛された弟子」(21:20)と言い、それを証拠づけるように、最後の晩餐ではイエスの側近の座(右の座)にいたと紹介しています。「神は愛です。」(Ⅰヨハネ4:16)「私たちに愛がわかったのです。」(3:16)いずれもヨハネの言葉です。神がまず私たちを愛されました。その愛は、ひとり子を賜ったほどの愛です。その愛はイエスによって知る事ができました。今度は、私たちが神を愛するようにと促されます。神を愛するとは、主にある兄弟姉妹を愛することです。そして、自発的に主イエスに従って行くことです。

3.愛に答えて従ったヨハネ

 ヨハネ福音書は、イエスの愛に答えて、主に従って行く二人の弟子、ペテロとヨハネとの絡みつきで閉じて行きます。ペテロは、イエスから「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と問われる事、三度でした。応答の後にイエスに従い行きました。他方、ヨハネも同じく、イエスの後に従いましたが、言われて従う弟子ペテロとは違い、自ら進んで従いました。「わたしに従いなさい」との御声を、自分への招きの言葉として受けとめたのです。私たちも、同じようにして、ある時代のある人々への神の語りかけが、自分たちへのものでもあることを知っています。

2019年6月23日(日) 第4主日

『あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。』(ルカ15章10節)

人はなぜ生きるのか

 誰かに喜ばれていることを知る時に、嬉しくなります。逆に嫌われていると思うと、辛く悲しいものです。小さな子どもたちが、喜んで大人のお手伝いをする姿を見ると、幼い時から、人のために役にたつことは楽しい事だと知っているようです。人からの最高の声掛けは、次の言葉だと思います。

 ―また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」―(マタイ3:17) この声かけは、主イエスへの天から聞こえた声です。愛するがゆえに、その存在自体が喜びである、そう言葉にして告げる、これが主イエスと天の御父とのご関係です。

 主イエスは、人に嫌われ、ついには、十字架につけて殺されたお方です。

 病を癒し、死者を甦らせ、食べ物を与え、ひたすらに人に仕え、与え続けられたお方なのに、死の他は何も報いがありません。それでも、主イエスの天の父である神に喜ばれる事をし続けられました。ついには、私たちの罪の身代わりのためにとご自分のいのちを捨ててくださいました。終わりまで天の御父の御こころを行い、神に喜ばれる道を歩まれたのがイエスです。 

 私たちが、生きる意味を知ろうとするならば、第1番目に、私たちを創造した神、私たちを愛し、ひとり子を与えて下さった唯一の神を信じる事から始まります。良い行いによってではなく、御子イエスを信じる者を、あたい無しで赦すことができる神を信じることです。その時、神が私たちの罪を赦し、義と認めてくださいます。神に愛される、子どもとなります。

2019年6月1日土曜日

2019年5月19日(日) 第3主日

『兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。』(ヨハネ19:25~27)

イエスの十字架のそばにいた人々

 主イエスが十字架につけられた時、多くの人々がイエスをそしり、あざけりました。しかし、そのただ中で、主イエスの側に立った者たちがいました。

1.アリマタヤのヨセフの生き方
 ユダヤの議員でヨセフと言う人です。「この人は、議員たちの計画や行動には同意しなかった。」(ルカ23:50、51) 大多数がイエスを死罪だと叫ぶ中で、ヨセフは孤高の道を選択しました。りっぱな、正しい人で、神の国を待ち望んでいたと呼ばれる所以です。ヨセフは、誰もがしようとしなかった、否、できなかった特筆すべき行動に出ました。主イエスの体を十字架から取り降ろし、未使用の墓に丁重に葬りました。結果、「彼は富む者と共に葬られた。」(イザヤ53:9)とのイエスの埋葬の預言が実現しました。

2.勇気と決断
 間違っていることに同調しないことには、大きな勇気が必要だったはずです。ヨセフを、りっぱな人と呼ぶにふさわしい所以は、この決断と実行力です。正しいことを行おうとする時、恐れて弱くなりがちです。「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ4:17) キリスト者が、罪意識にさいなまれるのは、この事柄です。神に喜ばれること、あるいは、喜ばれないことを知りました。罪が何であるかも知りました。しかし、なお、欠けているのは、行おうとする決断と勇気です。その力はどこから来るのでしょうか。

3.神の国を待望する信仰
 ヨセフの信仰の特徴は、次のように言われています。「神の国を待ち望んでいた。」(ルカ23:51) 人間による支配と権威は終わり、神の直接的支配が実現する日、つまりキリストの到来を待望んでいました。神の国は神の義が支配する世界です。不正は消えて義の光が照る世界です。その実現を待望する人は、ヨセフのように、正しく歩みます。

4.私たちの希望と誇り
 主イエスの地上再臨により、神の国が到来します。その日を待ち望むのは、私たちも同じです。そして、主イエスの「十字架を決して恥とはしません」と、パウロも言いましたが、私たちも十字架を恥とはせず、誇りとします。
2019年5月12日(日) 第2主日

「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:3)

 ギリシャ語で頭骸骨を表すクラニオン「どくろの地」、ヘブル語ではエルサレムの近くにある丘の名前で「ゴルゴタ」と呼んだ処刑場がありました。そこでイエスは二人の犯罪人と共に十字架につけられました。預言者イザヤが告げた苦難のしもべ、そのままにイエスは、人々からさげすまれました。 

1.道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」(マタイ27:39) 

2.祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」(:41~43)

3.イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。(:44)十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。(ルカ23:39)

4.ローマの兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。(ルカ23:36、37)彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわってイエスの見張りをした。(マタイ27:35、36)

5.主イエスは、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(1ペテロ2:23) それどころか、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と祈られました。
主イエスは、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。(1ペテロ2:24)


2019年4月30日火曜日

2019年4月21日(日) 第3主日

その大能の御業のゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。(詩篇150:2)

主をほめたたえよ

 キリスト者が日曜日に集まり、神への感謝と賛美をささげるようになったのには、特別な理由があり、古いものが過ぎ去り、全く新しくする出来事があったからです。モーセ以後、厳守されてきた土曜日安息日とは、6日間による天地万物創造の完成を記念し、7日目が聖日となったことが起源です。それが日曜日へと変わったのは、キリストの復活によります。

 「人の子は安息日の主です。」(マタイ12:8)とイエスが言われたように、その日は、「主の日」です。死者の中からの復活された日は、イエス様の日と呼ぶにふさわしい日です。キリスト者が集まる理由の一つです。

 天地創造とその世界は、偉大な神の栄光を現しています。同じく創造主の大能の現れ、それが、神の御子が三日目に死者の中から甦られたことです。その体は栄光の御体であり、罪と死に完全に勝利されました。朽ちもせず、汚れもせず、永遠に生きることができる、栄光の体へとイエスは復活されました。

 キリスト者が、イエスの復活された日に集まるようになったのは当然と言えます。やがて、主イエス様がもう一度来られる日が来ます。その時、聖徒たちの体も、イエス・キリストと同じ栄光の体へと変えられるのです。その日もまた、主の日と呼び待望します。キリストの復活は、すべての聖徒たちにとっての希望です。

 主イエスの甦りの朝は、「週の初めの日」です。労働を禁じた安息日があけて、働きを開始する日です。主イエスの復活された日は、春の祭りのひとつである「初穂の祭り」で、麦の穂を祭司が捧げる特別な日でした。イエスの復活を「初穂」(Ⅰコリント15:20)と呼んでいます。復活時代の到来であり、宣教時代の幕開けです。全世界にイエスの御名が宣べ伝えられています。

2019年4月14日(日) 第2主日

『わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。』
                        ヨハネ17章11節


              イエスの願い

 主イエスの公生涯、つまり神の子キリストとして使命を果たした期間は3年ほどです。その間に、弟子を召し、育て、守り、父である神を明らかにされました。地上での使命を閉じようとするに先立ち、弟子たちがいる所で、父である神に語りはじめられました。その願いの言葉には、イエスとはいかなるお方かが示されています。

1.天におられる神の御ひとり子です。
 イエスと神との関係の1番目は、父と子です。目を天にむけてイエスは言われました。「父よ。」ご自分については、「あなたの子が」と願いを告げられています。モーセ、ダビデ、サムエル、誰ひとりとして、神と自分との関係を、そのように告白はしていません。

2.永遠のいのちを持つお方です。
 イエスはナザレで生まれ、十字架で死んだお方です。肉体をとり、人のもついのちを、イエスも聖霊により授かりました。しかし、イエスは、天地万物創造の先より、すでに、父である神と共に在られたと語られています。唯一の神と共におられた御子、そのいのちは永遠です。イエスこそ、万物の創造主であり、万物の存在目的でもあります。

3.天の父のもとから世に遣わされた御方です。
 その目的は、父である神の御名を世に明らかにすることです。罪人を悔い改めさせ、救うためです。その弟子を召して育てるためです。罪の身代わりとなり、多くの人のための代価としてご自分のいのちを捨てることです。十字架はそのためです。イエス・キリストの使命です。

4.栄光の主です。
 すべてを支配する権威を神より授けられたお方です。いっさいの裁きの権威をもっておられます。最後の審判において、白き御座に座してすべての人を裁くお方はイエスです。御使い、聖徒たちからの賛美と礼拝を受けるにふさわしいお方です。「ほふられたこひつじは、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしいお方です。」(黙示録5:12)

5.私たちのため祈られたお方です。
 「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」(ヨハネ17:24)

 2025年12月21日(日) 第3主日 『主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。』 詩篇138篇8節  神の作品には、途中で放置されたままのものはありません。太陽、月、星、植物、生き物に至る...