2019年2月28日木曜日

2019年2月10日(日)  第2主日

『イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」』ヨハネ14章22節

             世に勝った

「世」とは、社会としての生活の場であり、流もあれば時もあります。たとえば、「千代に至る祝福」は、主の戒めを守る者に及ぶ幸いですが、個人の領域を越えて、社会全体に、あるいは幾世代にも及びます。
 
 ノアとその家族を例にとるならば、当時の世は、神の道を乱し、暴虐が満ちていました。しかし、ノアは、生活の場が、たといそうであったとしても、主の道を歩み通しました。大洪水によって当時の世界とその世とは滅びました。唯一、義人ノアとその家族は救い出されました。その祝福は、代々に及び、今に至ります。ノアの子セムへ、セムの子孫テラへ、テラの子アブラハムへ。アブラハムはダビデへ。そして、ダビデの子孫としてこられた、私たちの主イエス・キリストへと到達します。千代をはるかに越える「永遠の命」の祝福として、イエスを信じる者すべてに及びます。
 
 主イエスがこられた「世」は、ユダヤの王はヘロデ大王で、主の降誕を知って幼児を殺害しました。イエスが公生涯を開始される時の預言者ヨハネを斬首したのが、息子のアンティパス。イエスが捕らわれた時に会っています。ヘロデ大王の孫アグリッパ一世は、パリサイ派と協力して使徒ヤコブを処刑しました。主の使いはこのヘロデを打ち、虫にかまれて息絶えました。(使徒12:23)アグリッパ2世(ヘロデ大王曾孫)は、捕えられた使徒パウロから直々に証しを聞き、心動かされます。10年ほどしてエルサレムは、ローマ軍の侵攻を受けて陥落しますが、ローマの側についた人物です。
 主イエスの降誕、公生涯の開始、使徒達の宣教開始、使徒パウロの宣教という、神の救いの御業が現れた時代。世は、これを悟らず、むしろ世はこれを憎みました。神の国に敵対し続けたのが世でした。

「この世を支配する者が来るからです。」(ヨハネ14:30)
とイエスが言われたのはサタンのことです。
「全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。(1ヨハネ5:19)
これが当時を生きたヨハネの証言です。
では、神の支配はいかに。イエスは言われます。
「わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)
 そのお方から「助け主」が遣わされました。そのお方を受け入れる者が神の子どもたちです。この世は、なおも神の忍耐と慈愛が注がれ続けています。しかし、暴虐が地に満ち、神の道を乱しています。信じる者たちは、イエスへの愛とその現れを待ち望んでいます。

2019年2月2日土曜日

2019年1月27日(日)第4主日 


「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」」                     ヨハネ14章6節

             道・真理・いのち

主イエスはその弟子に、神を信じると同様にご自分を信ぜよと言われます。また、ご自分を指して、「道、真理、いのち」であるとも言われました。

そのように言い切ることのできるお方は、イエス以外には知りません。

聖書中、道を指示した大いなる預言者はバプテスマのヨハネです。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」と叫びましたが、自分に関しては、「私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。」(ルカ3:16)と言っています。皆が悔い改めて自分を正す事が、イエスを迎える道備えであり、ヨハネはイエスを指示した人であって、自分自身が道であるなどとは言いません。

それに対してイエスは、ご自分が道であると言われます。その道とは、イエスの御父である神に至る道です。その事は「真理」であると断定されています。その証拠は、「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。」「わたしを見た者は、父を見たのです。」イエスと御父との完全なる一体性にあります。(ヨハネ14:9、10)

「いのち」の道と滅びの道とがあります。御父の家へと向かうか、それとも永遠の滅びへと向かうかは最重要です。言うまでもなく、イエスは御父の家の住まいへと導くお方であり、そのために場所を備えに行くと言われます。

滅びに至る道の先導者がいます。私こそがキリストであると言う反キリストの霊です。サタンのために備えられたゲヘナへと誘おうとする道です。もう一つには、どの道でも救いに至ると教える者です。人が道を尋ねているのに、どれでも結局は、同じだと言う人は、迷いに導く人です。これらは、滅びに至る道です。救いの道は、一つで「わたしを通しでなければ、」。

主イエスはいのちへと導くお方です。御国の門で「わたしはあなたがたを全然知らない。」(マタイ7:23)と言われてしまえば、外の暗闇へと追放されます。逆に主イエスに知られている者はパラダイスに入ります。

十字架にイエスと共につけられた犯罪人の一人は、イエスこそが道であると信じて、死の間際に、いのちに至った人です。犯罪人は一つの願いをしました。「イエスさま。あなたの御国の位におつきになるときには、私を思い出してください。」イエスは言われました。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:42)
イエスこそが救いの道です。

2019年1月13日(日)第2主日


「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」ヨハネ13章35節


栄光の旅立ち

主イエスが、その弟子たちに「新しい戒め」を授けたのは、過ぎ越しの祭りの前夜、イスラエルの歴史上では、エジプトから栄光の脱出を記念する夜です。モーセ率いるイスラエル民族がエジプトから贖い出された時、神の偉大さと、贖いの力が表されました。前門の虎後門の狼のごとく、行く手をはばむ紅海、追い迫るエジプト軍の戦車。結果は、主が輝かしくしも勝利を収められました。(出エジプト15) 旅立つ日、それは栄光を受けた日、そして、栄光のあらわれに向けて進む日です。

主イエスも、その夜に言われます。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。」(ヨハネ13:31)別訳では「栄光を受けます。」とも表現されています。主イエスにとって、その日は、父の御元へと、戻る時をさしています。(13:1)御父の御そばで、栄光に輝いておられた御子イエスが、地上の使命を果たし終えて栄光の御位につく時が来ました。(17:5)主イエスの栄光への旅立ちです。しかし、恐ろしい死の陰の谷、いや、十字架上での死が待ち受けています。苦難の後に待っているのが、栄光の復活と昇天、御父の右に着座されることです。

イスラエルが、石の板に刻まれた十戒、律法を授かった時、シナイの山は火と煙、全山が震え、近づくものは打たれる恐怖が覆いました。主イエスが与える新しい戒めは、万物の支配者、神であるイエスが、膝をかがめ、しもべとなって弟子の足を洗う行為と共に与えられました。「あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13:34) 

新しい戒めは新しく造られた民に授けられました。イスカリオテのユダにサタンが入り、イエスのもとから去り出て行ったあとです。汚れた足がイエスの洗足できれいになったように、ユダが去り汚れが取り除かれました。新しい戒めは新しい民に与えられました。守る者への祝福は、主イエスが留まられることです。荒野の旅路では、昼は雲、夜は火があって、神が共におられるしるしとなりました。私たちにとっては、互いに愛しあうことは、その群れの中にイエスがおられる、しるしなのです。 

2019年1月6日日曜日

2018年12月30日(日)第5主日

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」           ピリピ2章6~9節

            きわみまで愛された

イエスの弟子ヨハネは、主イエスから足を洗っていただいた時の体験をヨハネ福音書13章で書いています。サンダルを脱いで、床に座って食事をする習慣ですから、足を洗うたらいの水と手拭いを用意するところから始まります。イエスに従う女性たちは、ナルドの香油を注ぎ(ヨハネ12)、感謝の涙でイエスの足を濡らし髪の毛でふきました。(ルカ7) 実に美しい光景が記されています。他方、弟子たちはと言えば、鈍感で主イエスのためであってもたらいに水を用意さえしません。(ルカ7:44) ましてや弟子同士で足を洗いあうことなど思いもつかないことです。

こともあろうに師であり主であるイエスが、たらいに水を用意するところから始めて、ひとりひとりの足を洗い始められました。この行為の中にヨハネは、イエスの弟子への愛を見ました。 「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」13章冒頭に、その意味合いを最初に開示してある通りです。

さすがに鈍感な弟子でも、イエスに足を洗ってもらうのですから、戸惑い気後れします。しかし、主イエスからの愛ですから、無条件に受けるべきなのです。もし拒めば、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(ヨハネ13:8) 受けたのですから、今度は同じようにして、相互に愛しあうべきと学びました。イエスの弟子たちがどの群れとも異なるしるしは、互いに高ぶらず、僕となり、仕えあうのです。

今年は、様々な現場でのハラスメントの実態が明らかになりました。人がする嫌がらせは、相手を傷つけます。上の者が下の者へ、あるいは、その逆もあります。主イエスの足洗いは、ハラスメントとは真逆にして最高の徳性です。いつイエスは足を洗われたのか。「父が万物を自分の手に渡された事と、ご自分が父から来て、父に行くことを知られ」(ヨハネ13:3) 最も高いお方が、最も低い僕になられました。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」

主イエスは足を洗い清めるどころか、私どもの罪と汚れのすべてを十字架において処罰し、その血をもって清めてくださいます。それを信じて受けるならば、愛を受け取る関係が生まれます。

2018年12月23日(日) 第4主日

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」           ピリピ2章6~9節


主イエスの誕生に見る栄光

イエスは生まれてすぐに飼い葉桶に寝かされました。ルーツをたどれば、ヨセフも母マリヤもイスラエル国の王、ダビデの子孫です。1000年の昔の栄耀栄華は、すでに地に落ちて久しく立ちました。しかし、神の計画が始まりました。救い主がベツレヘムで誕生されました。

一見、惨めで、不憫に思える赤子です。神は忘れておられるのか。神の祝福はないのか。そもそもローマ皇帝アウグストが住民登録の勅令を出すからこんな目にあうのだ。神抜きの人生観はそうつぶやきます。

神の光を、そこに照らす時に神の栄光を見るのです。キリスト、救い主たる真正な証拠、それが飼い葉桶に眠るみどりごです。「これがあなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:12) わかる人にはわかるのです。キリストの十字架の死もまた、同一線上にあります。飼い葉おけ、御子イエスの十字架の死と復活は、神の知恵と力の結集なのです。(1コリント1:14)

東方の博士はキリスト誕生を星の出現により確信しました。長い旅路を経て、ついにエルサレムにつきました。新たな王を王宮に尋ねます。そこは、幼子の殺害を謀るヘロデ大王が居座るところです。そこにはキリストはおられません。星の再出現により導かれた博士たちは、ダビデ王の出生地ベツレヘムでついに幼子に出会います。持参した黄金、乳香、没薬を幼子におささげしました。求める人、尋ねる人にはわかるようにしてくださいます。

夜空に輝くオリオン座はいにしえから神の栄光を指し示していました。(ヨブ9:9、38:31、アモス5:8) しかし、野に咲く草花もまた、神の栄光をあらわしています。「栄華を極めたソロモンでさえ、このような花のひとつほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、」(マタイ6:29、30)

人が作り出し、ほめそやす栄光は、草花一輪にさえ及びません。栄光の神の御子を世に送られた御父は、もっとも地の低い所におかれました。しかし、飼い葉お桶であろうと、みどりごであろうと、神の御子としての栄光は失われません。天から御使いの軍勢が共に下り、大合唱します。「いと高き所に、栄光が、神にあるように、地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)

2018年12月1日土曜日

2018年11月25日(日) 第4主日

しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。      ヨハネ12章13節~16節
           今の栄光のちの栄光
 主イエスの行動には一つ一つに意味があります。それを見ていた者は後で気づきました。イエスの御業、お言葉、計画、後にわかったすべてをヨハネが書こうとしても書ききれないほどであると告白しています。
 主の行動が後でわかったのは、ラザロの甦りです。主が愛されたラザロが危篤なので来て癒してほしいとの使いの言葉に、イエスは2日の間そこに留まり続けられました。イエスにとっては、行くか行かないか、あるいはいつ行くか、万事に御心があり、意味がありました。一時の猶予も許されない中でも、2日滞在し続けられました。イエスの計画は病を癒す事にはなく、甦らすことにありました。結果は、イエスは死後4日目に墓の前に立ち、ラザロをよみがえらせられました。主の計画はゆっくりではあっても確実です。
 ラザロの甦りの意味することをヨハネたちは後になって知ります。「わたしはよみがえりです。いのちです。」(11:25)と事前に言われたように、ほかでもない、主イエス自らが甦られたのです。しかし、誰もが、イエスの墓の前で復活の朝を待っていた者はいません。万事、栄光をお受けになってみて、あの時の主のお言葉を思い起こして行くのです。
私たちが知っている事、聞いている事、理解している事、きっと栄光の主が来臨される時には、イエスの弟子たちのように、これらのことがイエスについて書かれていたことだと悟り、驚くことでしょう。
 シバの女王(現イエメン)がソロモンの名声を聞き、ためそうとしてやってきました。「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。…聞いたうわさよりはるかにまさっています。」(Ⅰ列王記10:7) ヨハネは、イエスについてこう言います。「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」(ヨハネ21:25)
神の備え得ておられることは、人の想像をはるかに越えます。
2018年11月11日(日) 第2主日
十字架の言葉は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」Ⅰコリント1章18節19節
             十字架の福音 
 表題の聖書箇所は、使徒パウロが、ギリシャ地方で伝道してできた教会に当てて書いた手紙です。ギリシャは知の巨人を輩出した土壌です。最高の賢者との評を受けたソクラテスは答えました。「自分自身が無知であることを知っている人間は、自分自身が無知であることを知らない人間より賢い。」パウロはこう言います。「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」(1:20)ソクラテスは知恵者に順位をつけました。パウロは、神は、知者を愚かとされたと告げました。現代は、いずれを土台にしているのでしょうか。
 聖書では、「主を恐れることは、知恵の初め。これを行なう人はみな、良い明察を得る。」(詩篇110:10)創造主を崇め、同時に自分を神の前に低くすることから万事知恵は始まります。もし、それができるならば、神の創造作品である世界を通して、創造主である神を知ることができるはずです。
学者の知恵の言葉に対し、パウロは自らが語る神の知恵のことを「十字架のことば」と表現しました。人間の知恵と神の知恵のぶつかりあいです。圧倒的に軍配は神の知恵にあがりました。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」(1:19)
 パウロの語る福音とは、神の御子キリストが、十字架で死に、三日目に復活したのです。それは、本当の出来事であり、それを信じる者は誰でも救われるのです。自分の罪を認めない人には、キリストの十字架の死は蔑みでしかありません。神の力も奇跡も信じない人には、キリストの復活は興味を失わせるたわごとでしょう。しかし、自分の罪を知り、神に救いを願う者に、神の隠された知恵キリストなのです。キリストの十字架は、私のために身代わりです。キリストの甦りは私の罪の赦しの保障です。
 神の知恵は、人が凡そ思い浮かぶはずもない行為となって現れました。キリストによる救いは、人間の知恵の探求ではありません。信仰は、神の大いなる御業の上に土台を置いているのです。

 2025年12月21日(日) 第3主日 『主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。』 詩篇138篇8節  神の作品には、途中で放置されたままのものはありません。太陽、月、星、植物、生き物に至る...